音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く「あの人に聞くデビューの話」。この連載では多種多様なデビューの形と、それにまつわる物語をじっくりと掘り下げていく。第12回のゲストはtofubeats。J-POP黄金時代とネット黎明期の直撃世代である彼は、いかにして音楽に目覚め、サウンドクリエイターの道に進んでいったのか? 前編となる今回は楽曲制作をスタートした中学時代から、デビュー前夜と言えるソニーの育成アーティスト時代までを振り返ってもらった。

【写真】2010年、ソニー育成アーティスト時代のtofubeats

取材・文 / 松永良平 撮影 / 山口こすも

ネット時代の音楽制作と21世紀型J-POPを結び付ける若き気鋭クリエイターとして2013年にメジャーデビューしたtofubeats。デビュー当時は、神戸在住であることをあえて標榜し、東京中心主義とローカルの関係性を逆転させる存在としても注目を浴びた。そして、2010年代前半、ネット発信からオーバーグラウンドへと展開し、異例とも言えるヒットを記録した名曲「水星」(2011年)は、tofubeatsの音楽人生を決定付けただけでなく、現代でもなお多感な世代の心に響くアンセムとして機能し続けている。そんなtofubeatsが、かつてはプロのミュージシャンになる気持ちはさらさらなく、またメジャーデビューの可能性がありながら挫折した過去があったことは、あまり知られていないかもしれない。高校生時代から活動してきたtofubeatsにとって、デビューがどんな変化をもたらしたのか、たっぷりと語ってもらった。

曲作りの情報源はネットライブの掲示板

──1990年生まれのtofuさんが初めて意識した音楽は?

初めて親に買ってもらったCDは「めざせポケモンマスター」(1997年)ですね。我々はポケモン直撃世代なんです。「ポケットモンスター赤・緑」(1996年)の発売が小学生のとき。「ポケモン無印」(※1997年から放映されたアニメ第1シリーズを指す)直撃世代です。小学校高学年になって、KICK THE CAN CREWRIP SLYMEみたいな日本語ラップ宇多田ヒカルさんなどJ-POPを聴くようになります。J-POP新世代の勃興期みたいな時期でしたね。歌謡曲がJ-POPと完全に入れ替わった時期の第1世代が我々ぐらいになるのかな。

──時代背景の分析として完璧です。確かに1990年代後半から2000年にかけて、激動があったんですよ。宇多田ヒカルのデビューアルバム「First Love」が800万枚売れたのもそう。音楽は家の中で鳴ってたり、わりと身近にあったんですか?

人並みですかね。両親も音楽が特別に好きというわけではなく、家にCDがたくさんあるとかでもなく。ただし、父親は若い頃にエレクトーンの講師をやっていたんです。でも音楽で食っていくことはつゆほども考えず、大学を出たらさっぱりエレクトーンは辞めて普通にサラリーマンになったそうです。

──音楽を作り始めたきっかけは?

小学生のときに一瞬だけピアノを習いに行ったんですけど、全然向いてなくて速攻やめました。自分から音楽制作にのめり込んでいったのは、中学校に入って、インターネットを使うようになってからです。

──計算すると中学入学が2002年だから、ネット黎明期ですね。

ISDN回線からブロードバンドになり始めたくらいです。

──ブロードバンド! ネットの常時接続が夢だった時代に輝いてた言葉ですね(笑)。最初に触れた音楽ソフトはなんですか?

SoundEngineという編集ソフトだったか、マルチトラックじゃない無料版のSOUND FORGEだったかな? いずれにせよWindowsのフリー録音ソフトでしたね。ただ、最初はパソコンでは音楽を作っていないんですよ。当時使っていたパソコンのスペックがしょぼすぎた。なので、ELECTRIBEというハードウェアサンプラーで作った音楽をパソコンにサウンドボード直挿しで録音するというやり方を取ってました(笑)。そのあと少し経ってから、音源をミックスできるACIDという音楽ソフトを手に入れました。なのでパソコンはマルチトラックレコーダーとかMTR代わりとして使っていた感じです。

──最初はどういうタイプの音源を作ろうとしていたんですか?

クラスの友達のお兄ちゃん日本語ラップのCDをいっぱい持っていて、それを又貸ししてもらうことでヒップホップに興味を持って、自分でもトラックを作るようになりました。

──それをネットに上げていった?

はい。2ちゃんねるとか、ネットラップに上げてました。ネットラップは掲示板だったんですけど、当時ネット上にラップの歌詞だけを投稿するという、今考えたら相当イカれた文化がありまして(笑)。そのうち掲示板だったネットラップに音源がアップロードできるようになり、音源をみんなで聴かせ合うようになったんです。要するにサイト上に音源アップロードのスレみたいなものができた。それを見て自分も曲を作れるかもと思ったし、自分以外にもアマチュアの人がいっぱいいるんだとわかった。情報交換ページでは曲の作り方を指南する人がいたので、そこから情報を得て曲作りを始めました。僕らはそういうことがきっかけになった第1、2世代くらいで、ある意味デビューもそこからだったかも。

──その掲示板で曲を公開している人たちは、もっと歳上の人たちですよね?

ちょっと歳上の方々でした。HAIIRO DE ROSSIさんやJinmenusagiさんがすでにいました。

自分が作ったトラックにラップが乗って返ってくる

──その中に入っていった中学生のtofuさんはどういう存在だったんですか?

いや、もう雑魚ですよ(笑)。ただ、中学生だということで珍しがられて、ちやほやしてもらった面はありました。あと数少ない中学生がいたら同世代で情報交換したりしてたし、当時の友達で今も一緒にやっている人もいます。仲よくなった人とは連絡先を交換して、今はなきMSNメッセンジャーでやりとりしました。高校に入る前くらいからリアルで会うようになっていくんですけど、最初はインターネットがきっかけです。

──リアルで会うというのは、いわゆるオフ会

そうですね。高校1年生か2年生のときにオフ会イベントで初めて東京に行きました。秋葉原ライブハウスを借りてネットラッパーのイベントをやったんです。「AB-BOY PARK」っていうアガる名前のイベントでした(笑)。それに出たのが最初の上京です。

──そのとき、もう名義はtofubeats

そうですね。もともと僕は、ibonne(イボンヌ)という名前で音源をアップしていたんです。それは人からもらった名前で、しばらくその名義で活動してたんですけど、だんだんスペル的にも読みづらいなと思うようになってきて。あと中学の同級生から、深夜映画を観てたらイボンヌっていうメイドがマシンガンで惨殺されたという話をされて、縁起が悪いし読みにくいし、いいことないから名前を変えようと(笑)。それで当時「なんとかビーツ」っていう名前が流行ってたので、自分もそういう名前にしようと思ったんです。そのときも、ずっとこの名前でやっていくとは思ってなかったんで、適当に「『豆腐ビーツ』でいいかな? 英字にしたらスペルの雰囲気もいいし」という感じで決めました。tofubeatsという名前には特にそれ以上の意図はないです。

──まさか、その名前で20年以上活動が続くとは(笑)。そして、徐々にtofubeatsとしての活動が広がっていくんですね。

中3の終わりぐらいから、関西ローカルの人ともちょいちょい関わるようになってました。mixiヒップホップのスレに音源を上げていたら、コンタクトが来るようになって。

──当時、Web上で発表していた音源に対する反応として覚えているものは?

「ダサすぎる」とかですね(笑)。「もっとこうしたらいいよ」とか言ってくれる人もけっこういたし、そういうアドバイスは今も印象に残っています。当時はネットの掲示板にいるメンバーが今と違って不特定多数じゃなくて、だいたいおなじみの人だったんです。昔のインターネットにはサークルノリみたいなところがあった。今に比べて温かい空間だったような気がします。だから皆さん、意見は厳しいんですけど、叱咤激励というか、アドバイスをくれました。

──具体的な助言も?

そうですね。「出音がしょぼい」みたいな。それで「どうしたら出音がよくなるんですか?」って質問すると、「マスターにリミッターを挿せ」みたいな助言をくれる。そういうやりとりがスレッド上で行われていましたね。当時は、トラックをネット上で配ったら誰かがラップを乗せて返してくれるという文化があったんです。今では当たり前なことですけど、自分が作ったトラックにラップが乗って返ってくる体験がすごく新鮮でした。

盟友・オノマトペ大臣との出会い

──そんな温かくも面白いインターネットのコミュニティから、徐々に外の世界に出るようになって。

インターネットだけで活動してると(リアルより)下に見られるという、当時のおなじみの扱われ方がありまして(笑)。高校1、2年生ぐらいまでは、神戸のローカルの人にトラックを渡したりしてたんですが、だんだん不良の人とかとニアミスするようになるわけですよ。僕自身は全然不良じゃないし、ヒップホップカッコいいと思ってやってたけど、不良文化みたいな部分にジレンマが出てきたというか。自分は不良には興味がないし、なりたくもない。そういう時期に、京都のSecond Royal Records周辺で、コラージュっぽい感じでサンプリングをやっているチームに出会った。時を同じくして、僕が今も関わってるネットレーベル・Maltine Recordsの人とも知り合った。そこからシフトチェンジが起きていった感じです。

──2017年に発売された雑誌「ロック画報」のカクバリズム特集号で、tofuさんはイルリメについて長いテキストを書いています。2000年代半ば、ヒップホップの中でのイルリメの立ち位置もすごく特殊でしたが、tofuさんは常々リスペクトを表明してますよね。

相当リスペクトしていますね。高1のときにイルリメさんと磯部涼さんがやっていたネットラジオの番組にデモを送ったらオンエアされたんです。それを聴いていたオノマトペ大臣からメッセージが来て、それで知り合いました。

──のちに「水星」(2011年)を一緒に作るラッパー、オノマトペ大臣との出会い。

大臣と僕はmixiの「disques dessinee(ディスク・デシネ)」コミュニティに入っていたんです。ディスク・デシネは当時、神戸にあったレコード店(現在は東京・三軒茶屋で営業)で、コミュニティのメンバーは40人くらい。僕のプロフィールに「高校生」と書いてあるのを見て、大臣は少し歳上なので「そんなわけあるかい!」と思ってたそうです。知り合ったら本当に高校生だとわかってオドオドしたみたいで(笑)。そこからいろいろ面倒を見てもらうようになりました。大臣のラップは完全にイルリメさんをロールモデルにしてると思うんですよ。

──tofuさん自身が受けた影響としてはどんな感じだったんでしょう?

決まりきったジャンルを常にブレイクスルーしようとする姿勢ですね。自分がヒップホップのシーンに対して「ここに自分の居場所はないかもしれない」と思ったときに、イルリメさんの独立独歩なスタンスに共感を覚えました。イルリメさんってどこにも属してないじゃないですか。逆瀬川ポセイドンズ(※ロック漫筆家・安田謙一、イルリメらが結成していた草野球チーム)にしか属してない(笑)。

──逆瀬川ポセイドンズの名前がここで出てくるとは!

ポセイドンズのメンバーは全員そういう独立した感じなんですよ。特に言葉では何も言わないんですけど「お前は何ができるんや?」って問われている気がする。関西特有のそういう個性的な人たちに、今でもめっちゃ影響を受けているっていうか。

──でも、その「何が」であるはずの音楽を仕事にするつもりは、まだなかった……?

マジでなかったですね。

高3でソニーの育成アーティストに

──高校3年生だった2008年にはテクノの大イベント「WIRE」に出演しています。傍から見たらすごい若者が現れたみたいな、ある種センセーショナルな存在だったと思うんですけど。

とはいえ、同級生で「WIRE」を知っている人は誰もいなかったです。当時は17歳だったので、そもそもクラブに行けない年齢ですし、「WIRE」でも法律に触れない22時ギリギリまでやって、終わったら即帰らされるというスケジュールでしたから。あと、大学時代にはソニーの育成部門に所属していたので音楽制作の仕事とかも副業としてやっていましたけど、リアルな話、月に10万円行くか行かないかの収入がずっと続いていた。学生バイトとしてはいいけど、仕事としてはそれじゃ食っていけないじゃないですか。父親にもそういうことをたまに話していたんですけど、「食えてなかったらそれ、職業じゃないからね」って言われたりしてました。だから、「食っていかれへんから無理か」と思っていましたね。

──ソニーの育成部門で、あっさりデビューしていてもおかしくなかった気がしますが。

ソニーのSDグループという育成部門に、高3の春にサインして入りました。通っていたのは、大阪支社です。いわゆるトライアウトというか、自分的に何かを達成したというよりも、自分は今試されているという感じでしたね。そもそも最初にソニーから連絡が来たとき、僕、断ったんですよ。

──そうなんですか?

なんでかって言うと、当時違法サンプリングみたいなことをやってたから。他人の曲を勝手にエディットしてYouTubeにアップロードしていたので、連絡が来たときはしばかれると思って断ったんです。そしたら、お世話になっている先輩から「ソニーのSD部署にいる杉生(健:CE$名義でDJとしても活動)くんは悪い人じゃないから会ってもらっていいか?」って諭されて。それで三ノ宮駅ドトールに会いに行ったら、杉生さんは高校生を目の前にしてタバコを吸いだして、「ヤバいやつが来た!」と思いました(笑)。

──その人が、今tofuさんのマネジメントをしているわけですもんね。

結局、杉生さんと話してSDに所属することになりました。自分の中でも曲作りがうまくなりたいし、人に聴いてもらいたいという気持ちはあったんですけど、かといって「デビューしたい」というのは、ちょっと話が別っていう感じでしたね。杉生さんは誠実な人で「デビューに向けてがんばっていこう」という感じではなくて、「いろいろやってみて、うまくいったらなんかやったらいいし、あかんかったらしょうがない」みたいなノリだったんです。ただ「一緒にいたらオモロイことはできるから」と言ってくれて、実際にソニーのアーティストのリミックスの仕事を取ってきてくれたり、コンペに楽曲を出してくれたりしました。

──ソニーの育成アーティスト時代の仕事は身になった部分も大きい?

そうですね。ポップスみたいな、普通の歌モノみたいな曲を作れるようになったのは、ソニーでの訓練の賜物という感じはあります。そうしているうちに「ちょっとメジャーデビューしたいかも」という気持ちにはなっていました。周りがどんどん先にデビューしていくのに、自分だけ大阪所属の不良債権みたいな感じだったんです。1、2週に1回、事務所に行ってはサンプルCDを片っ端から袋に入れてパンパンに持って帰るみたいな(笑)。最終的に5年いましたけど、やっぱりここではメジャーデビューできないなということで、杉生さんが辞めるタイミングで一緒にソニーを出ました。

──そうか、今のtofuさんしか知らないと順風満帆の音楽人生と思われているかもしれないけど、かつてメジャーデビューできなかった歴史があったとは。

配信で1回曲を出して試させてくださいとお願いしたら、ソニーの自社配信サイトでmoraというものがあって、iTunes Storeでは曲を出せなかったんです。それで僕個人でiTunes Storeと契約して出すならいいという話になり、すでに一緒に曲作りをしていたオノマトペ大臣と組んで「BIG SHOUT IT OUT」(2010年)を配信したんです。それが当時のダンスミュージックチャートで1位を獲りました。

──すごい。

でもソニーには評価されなかったです。今思えば、動きがいささかラジカルすぎました(笑)。個人で音源を配信するという動きがまだまだあまりなかった時代でしたからね。

<後編に続く>

tofubeats(トーフビーツ)

1990年生まれの音楽プロデューサー / DJ。2007年頃よりtofubeatsとしての活動をスタート。2013年に「水星 feat.オノマトペ大臣」を収録した自主制作アルバム「lost decade」をリリース。同年、森高千里をゲストボーカルに迎えた「Don't Stop The Music feat.森高千里」でワーナーミュージック・ジャパンからメジャーデビュー。その後、6枚のフルアルバムのほか多数の音源をリリース。ソロでの楽曲リリースやDJ・ライブ活動はじめ、さまざまなアーティストのプロデュース・客演、映画・ドラマ・CM等への楽曲提供から書籍の出版まで音楽を軸に多岐にわたる活動を続けている。最新作は地元神戸のラップデュオNeibissとの共作「ON & ON feat. Neibiss」。2025年、主宰レーベル / マネジメント会社HIHATTは10周年を迎える。10月から11月にかけて全国ツアー「tofubeats JAPAN TOUR 2025」を開催。

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tofubeats JAPAN TOUR 2025

2025年10月3日(金)宮城県 darwin
<出演者>
LIVE:tofubeats
GUEST:Neibiss
VJ:VIDEO BOY
LIGHTING:BACH TOKYO

2025年11月1日(土)石川県 REDSUN
<出演者>
LIVE:tofubeats
GUEST:Neibiss
VJ:VIDEO BOY
LIGHTING:BACH TOKYO

2025年11月8日(土)愛知県 名古屋CLUB QUATTRO
<出演者>
LIVE:tofubeats
GUEST:Neibiss
VJ:VIDEO BOY
LIGHTING:BACH TOKYO

2025年11月9日(日)京都府 KYOTO MUSE
<出演者>
LIVE:tofubeats
GUEST:Neibiss
VJ:VIDEO BOY
LIGHTING:BACH TOKYO

2025年11月16日(日)東京都 恵比寿ザ・ガーデンホール
<出演者>
LIVE:tofubeats
GUEST:Neibiss
VJ:huez
LIGHTING:BACH TOKYO

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