近年、AIの急速な発展により、誰でも手軽にテキスト・音声・映像などのコンテンツを生成できるようになった。とりわけ音声のなりすましやディープフェイクなど、“人間そっくり”の偽コンテンツが容易に作られ、SNSやECサイトなどでは人間とボットを判別するのはほぼ不可能だ。

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 フェイクアカウント、チケット転売ボット、なりすまし詐欺といった問題はすでに常態化しつつあり、今後さらに深刻化する恐れがある。こうした状況下において、情報の信頼性をどのように担保するか、そして発信者が実在する人間であることをいかに証明するか。これは、AI時代における最重要課題の一つとなっている。

 この難題に真正面から挑むのが、OpenAIの共同創業者であるSam Altman(サム・アルトマン)氏らが2019年に立ち上げた「World」だ。このプロジェクトは、AI時代における「人間であること」の証明を実現するために設計されたグローバルな認証基盤である。その中核を担うのが、個人情報を一切開示せずに“人間であること”を証明できる世界共通ID「World ID」だ。

 具体的には、人間性の認証デバイス「Orb」(オーブ)を用いて、一人に一つの匿名デジタルIDを発行し、SNSやゲーム、金融サービスなど、さまざまなオンライン空間において「人間証明」を可能にする。これは単なる認証技術ではなく、AI時代のインフラを根本から再設計する壮大な構想だ。

 すでにWorld ID登録者は世界で1300万人を突破。日本でも本格展開が始まり、5月15日にはメディア向けの事業説明会と関係者交流イベントを開催した。今回は、日本市場を統括するTools for Humanity(以下、TFH) 日本代表・牧野友衛氏に、プロジェクトの本質と日本における展望を聞いた。

●World IDとは何か? なぜ「人間証明」が必要なのか

 牧野氏は「将来的に、Googleの検索結果がAI生成の誤情報で埋まったり、X(旧Twitter)もボットだらけになったりする危険がある」と警鐘を鳴らす。Worldが特に「人間性の証明」が必要だと指摘する深刻な課題領域は、ゲーム、マッチングサービス、そしてソーシャルメディアの3つだ。実際、Tinderなどのマッチングアプリでは「相手がボットだった」という苦情が絶えず、Xでは買収交渉時にボット比率が争点となり裁判にまで発展した。オンラインゲームでも自動操作や不正取引を行うボットがコミュニティの健全性を蝕んでいる。

 これらはいずれも相手が本当に人間かどうかを保証できないことに起因する不信と混乱であり、現行プラットフォームはいまだ決定的な解決策を提示できていない。そのためにWorldはまず、この三分野を優先して「人間性の証明」という問題に取り組もうとしているのだ。

 World IDは、個人情報を開示することなく“人間であること”を証明できる仕組みだ。匿名性を保ちながらも高い信頼性を実現する新しい認証手段として機能する。

 この仕組みでは、マイナンバー運転免許証といった個人情報を一切提出する必要はない。TFHが開発した専用デバイス「Orb」を用いて、ユーザーは自分が人間であることを安全かつ確実に証明し、虹彩情報から重複なく唯一無二のデジタルIDを生成することができるのだ。

 このWorld IDは、企業側・利用者側の双方にとって大きなメリットがある。

 まず企業にとっては、個人情報を保持する必要がないため、情報管理にかかるコストやセキュリティリスクを大幅に削減できる。AIの急速な発展は個人情報流出につながるサイバー攻撃の高度化にもつながることが考えられる。また、World IDは発行・利用のいずれも無料で提供されており、審査やサーバー運用など本人確認業務にかかる負担を軽減できる点も利点だ。

 一方、利用者にとっても導入は非常にシンプルだ。専用アプリ「World App」に表示されたQRコードをOrbにかざし、Orbの前に数分立つだけでIDの登録が完了する。面倒な入力や書類提出は不要で、誰でも手軽に始められるのが特徴だ。

●Orb拡大計画と日本での実装

 World IDの中核を担うOrbは、「人間であること」を証明するための専用デバイスだ。

 米国では、今後12カ月以内に7500台の設置を計画しており、すでに6カ所の専用施設やゲームショップ「RazerStore」などで運用を開始している。今後、駅やスーパーなど、人々の生活動線上にOrbを配置することで、誰もが自然にOrbに触れられる社会の実現を目指している。

 日本市場における拡大戦略について牧野氏は次のように語る。

 「社会全体では、まだ人間証明の必要性が十分に理解されていません。だからこそ、まずはわれわれの取り組みに共感してくれている人に向けて普及を進めていく必要があります。インターネットのサービスも初期は多くの人に受け入れられませんでした。同様に、いきなり大手企業ではなくとも、まずは理念に共感してくれる小規模・中規模の事業者とともに取り組みを進めていく。そうした形で広がっていくと考えています」

 実際、日本でもアプローチが進んでいる。携帯ショップやアパレル店舗、Web3ゲーム、マッチングアプリといった、日常生活に自然に組み込まれるタッチポイントを通じて、Orb設置やWorld IDの活用が始まっている。将来的には、コンビニや駅など誰でも、どこでも、手軽に、「人間証明」ができるよう、Orbの設置を進めていく予定だ。

 以下は、日本ですでに進行中または予定されている具体的な取り組みである。

1. 博報堂:World IDの国内認知拡大および導入実証を共同推進(2024年10月発表)

2. P-UP World(キャリアショップ):全国11店舗にOrbを設置

3. バロックジャパンリミテッド(アパレル):表参道「The SHEL’TTER TOKYO」にOrbを設置(2025年5月開始)

4. TOKYO BEAST(Web3ゲーム):AIボット対策としてゲーム内ユーザーの本人確認にWorld IDを活用

5. Match Group(Tinder運営):日本のTinderで本人認証にWorld IDを導入予定

●新しいビジネスモデル が目指す「人間証明」の未来

 Worldは、従来のビジネス常識とは一線を画すモデルを採用している。最大の特徴は、そもそも収益を前提としていない点にある。

 運営資金は、ユーザーや企業からの収入ではなく、独自トークン「Worldcoin」の発行によって賄われている。今後15年かけて、合計100億トークンを段階的に発行。そのうち75%はWorldを普及するために配布する。さらにその60%をWorld IDを登録したユーザーに提供し、市場に流通していく予定だ。プロジェクトはこの仕組みを通じて資金を調達し、インフラ整備や運営費に充てている。この構造は、新株発行に近いものだという。

 牧野氏は、このビジョンについて次のように語る。

 「どうやってスケーラブルに、コストとリソースを抑えながら広げていけるか。そして誰かが所有するのではなく、全員で所有するというWeb3的な理念を具体的なプロジェクトとして実行し、その資金を仮想通貨で得るというモデルです」

 さらに、World創業者の一人であるTFHのCEOアレックス・ブラニア氏は、「10年後にこの会社が存在しないこと。それがこの会社の成功だ」と語ったという。

 World IDは単なるサービスではなく、誰の手からも独立した社会インフラとして自律的に動くことを目指す。

 近年、AIの進化は凄まじく1年後には次のフェーズに必ず到達していると一般消費者でも認識できる。その一方、AIが生み出す偽情報やボットがインターネット空間を覆い、人間証明やデジタル経済の信頼性確保が喫緊の課題となっている。その解決策を提示するWorldは、ビジョン、実現手段、そして仕組みの全てにおいて前例のない実験的な挑戦だ。AI時代における新たな社会インフラとなる可能性を秘めている。

 OpenAI設立者サム・アルトマンだから見える領域での、偽情報への対処のソリューションなのかもしれない。今後の展開から目が離せない。

(ベアーレ・コンサルティング平野貴之、平野皓大)

OpenAIのCEOのSam Altman氏(撮影:河嶌太郎)