
(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)
日本競馬史を変えたかもしれない名馬
前回、現役活躍馬だったライスシャワーが1995年の「第36回宝塚記念」のレース途中で故障を発生、症状は重く、その場で予後不良(回復困難)と判断され、直後に薬殺されたことを書きました。すると、それ以来どこからともなく「私のことも書いてください」という声が聞こえてくる気がして困りました。
その声の主はライスシャワーが死亡した3年後の1998年に、やはりレース中に骨折し安楽死を遂げたサイレンススズカでした。60年ほど前に日本で放送されていた米国製テレビドラマ『ミスター・エド』に登場する人間の言葉を話す馬、エド君ではありませんが、スズカくんは心にだけ響く日本語で私に訴えてきたのです。
ついでながら、ドラマでエド君の声を担当していたのは、落語家・三遊亭小金馬(のちの故・二代目三遊亭金翁)師匠で、当時『お笑い三人組』で知られる人気者でしたが、「馬」つながりの吹き替え抜擢だったのでしょう。
さて、以前にこの連載(第10回)で1999年「第78回凱旋門賞」2着馬エルコンドルパサーのことを取り上げ、実績・実力とも歴代最強馬に最も近い1頭ではないかと書きましたが、そのエルコンドルパサーに日本馬で唯一先着した馬が、今回取り上げるサイレンススズカです。1年後に凱旋門賞2着となるエルコンドルに、このとき2馬身近くの差をつけての勝利でした。
三段論法を用いれば、もしサイレンススズカが凱旋門賞に出走していたら、日本馬として初の栄冠に輝いていたかもしれませんね。実際、最後のレースでの故障さえなければ(後述)、凱旋門賞挑戦や米国遠征なども計画されていて、実現していれば競馬の歴史が変わったかもしれない、というほどの名馬でした。
覚醒の一年を象徴する「金鯱賞」圧勝
サイレンススズカの生涯成績を振り返ってみると、全16戦9勝、うちG1勝利1度、(1998年宝塚記念)というもので、この数字から見れば突出した名馬とは言いがたいかもしれませんが、同馬が覚醒し6連勝を記録した1998年の6レースがすばらしい。今見ても見る者を「強い、すごい、笑っちゃうほど感動的!」とうならせてくれるものです。
1998年2月のバレンタインステークスから10月の毎日王冠まで破竹の6連勝を遂げるサイレンススズカですが、覚醒のきっかけは、その前年暮れ、1997年12月に香港で行われた「香港国際カップ(G2)」レースに武豊騎手が初めて騎乗したことにありました。そのときは5着に終わりますが、武騎手が果敢に逃げる戦法をとり、ゴール近くまで先頭を譲らないというレースぶりで惜しい5着でした。
香港での覚醒以来、武騎手が騎乗し続け(宝塚記念を除く)、他馬を寄せ付けない「逃げ戦法」によってサイレンススズカは連勝街道を突っ走ります。連勝街道の4勝目は5月30日に中京競馬場で行われた「金鯱賞」でした。このレースは画像を通して何回見ても頬が緩んでしまうレースです。ギャンブルとは離れて、ただ1頭の馬のパフォーマンスに酔わせてもらえるからなのでしょう。同馬全レースの中で、このレースが私の一番のお気に入りでもあります。
サイレンススズカはスタートから独走、ゴール前の直線に入っても2着馬との差は縮まらず、観客席からは拍手が起こるという、あまり見たことのない光景が広がります。騎乗している武騎手も、めずらしく直線で後ろを振り返っています。きっと後続馬の蹄の音も聞こえてこないほど差が広がっていたからなのでしょう。
このときの2着馬との差、1.8秒(約11馬身)という大差は、JRAの平地・芝の重賞レースでこれ以降、破られていないのではないでしょうか。出走馬のレベルが低かったわけではなく、2着のミッドナイトベットは前走「京都記念(G2)」で勝利、3着馬タイキエルドラドは前走「アルゼンチン共和国杯(G2)」で勝利、前年の菊花賞優勝馬マチカネフクキタル、マイルチャンピオンシップ(G1)優勝馬トーヨーレインボーと実力馬が揃っているレースでした。
史上最高のG2レース「毎日王冠」完勝と「天皇賞」の悲劇
日本競馬史上「最高のG2レース」といわれる伝説のレースがあります。1998年10月11日に東京競馬場で行われた「第49回 毎日王冠」です。サイレンススズカが出走してくるということで、出走を取りやめた馬もいて、9頭立てで行われました。頭数は少なくても、そのメンバーが豪華でした。
ざっと列挙すると、エルコンドルパサー(出走時5戦全勝、うち1勝はG1。翌年「凱旋門賞」2着)、グラスワンダー(同4戦全勝、うち1勝はG1)という伸び盛りの4歳馬(現3歳)の2強のほか、テイエムオオアラシ、サンライズフラッグ、ランニングゲイルなどの重賞馬が出走、決して相手に恵まれているわけではありませんでした。
それでも、前述のとおり、2着馬のエルコンドルパサーに圧勝、サイレンススズカ1頭だけが傑出していたのです。実況していたフジテレビの青島アナの「どこまで行っても逃げてやる」の名文句がいまだに耳から離れません。武騎手もこの勝利に対し格別な感慨を抱いたようで、ゴール後、通常G1レースでの勝利のときにしか行わないウイニングランを行っています。
1998年、サイレンススズカにとってこの年7レース目であり、最後のレースとなる「天皇賞・秋」は同じ衝撃でも振り子の幅が歓喜とは反対側に振り切れるほど悲しいものでした。前走の圧勝劇でサイレンススズカの人気はさらに高まり、このレースでの単勝オッズは1.2倍と断然の1番人気に押されていました。
武騎手も強豪たちに圧勝した前走「毎日王冠」での勝利でさらに自信を深めたのでしょう。レース前の馬場入場の際、外ラチ沿いに気合たっぷりの様子で騎乗、相撲でいえば横綱の土俵入りを観客に披露するような心持ちだったのではないでしょうか。
順調にスタートを切ったサイレンススズカと武騎手は、いつものようにスタートから先頭を走り続けますが、4コーナー手前で左前脚の粉砕骨折を発症し失速、その場で安楽死の処置がとられました。急転直下、あまりにも突然の別れに、観客やファンはその状況についていくことができないかのように呆然としたことでしょう。私もそのひとりでした。
「天皇賞」のレース自体はオフサイドトラップが勝利して終了しましたが、競馬場にいたファンはもとより、テレビ観戦のファンは皆、サイレンススズカの姿に言葉を失い、まさに同馬の父サンデーサイレンスという馬名に示されたような「沈黙の日曜日」となってしまいました。
サイレンススズカにとって最後のレースとなった衝撃の「天皇賞・秋」を含め、1998年の競馬は、この馬のためにあったと思わざるを得ないレースばかりです。
武騎手とサイレンススズカの縁と絆
亡くなる1年9か月前に行われた新馬戦で、サイレンススズカと同じサンデーサイレンスを父にもつ牡馬プレミアートに騎乗していた武騎手は、2着馬に7馬身の差をつけて圧勝したサイレンススズカの走りを見て、そのフォームのすばらしさに驚き、痛い馬を逃した、と悔しがったそうです。
サイレンススズカと、その8年後に生まれた三冠馬ディープインパクトの両馬に騎乗した武豊は語っています。
「ディープに勝つためならスズカに乗る。スズカに勝つためならディープに乗る」
逃げ馬のサイレンススズカと正反対の追い込み馬ディープインパクトとの夢の対決は、AIならどう予想するのでしょうね。私の予想? 「G1史上、初の同着」ということにしておきましょう。
なお、名馬3頭の生没年は次のようになっています。
・ライスシャワー(1989~1995)
・サイレンススズカ(1994~1998)
・ディープインパクト(2002~2019)
サイレンススズカの死後、関連本が数多く刊行、かつて国民的なスターホースだったオグリキャップに負けないほどのムックや書籍が発売されました。最後のレースの衝撃度が従来の人気をさらに高めたからなのでしょう。
私は今流行りのゲームをやらないのでよくは知りませんが、「ウマ娘 プリティーダービー」というゲームやアニメなどでは、サイレンススズカも人気だそうです。サイレンススズカが旅立った頃にはまだ生まれていなかった若者たちが、こうしたバーチャル世界でサイレンススズカと共存しているかと思うと不思議な気がします。
競泳バタフライの長谷川涼香さんやアイドルタレントの鎮西寿々香さんは、サイレンススズカにちなんで命名されたとか。鎮西寿々香さんは、1998年11月24日生まれで、サイレンススズカが旅立った23日後に生まれていることから、競馬ファンだった両親が名付けたとのことです。
サイレンススズカのオーナーだった永井啓弐氏は三重県在住の実業家で、サーキットで知られる地元・鈴鹿にちなんで愛馬に『スズカ』と名付けることが多くありました。G1馬のスズカマンボ、スズカフェニックスなどの馬主でもありましたが、残念ながら今年の7月23日に亡くなりました(享年90)。ちなみに息子さんたちはレーシングドライバーだそうです。
私の仕事場にはサイレンススズカとエルコンドルパサーの写真が並んで飾られています。両雄が交えた1998年10月11日行われた毎日王冠のレースは、私の「生涯ベストレース ベスト10」に名を連ねています。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)
[もっと知りたい!続けてお読みください →] 【名馬伝説】パリに降り立った天馬のような日本馬・エルコンドルパサー、世界が認めた歴史に残る「凱旋門賞」の激走
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