
「終の棲家」として選んだはずの老人ホームから、ある日突然退去を求められる。そんな「まさかの事態」は珍しくありません。実は多くの施設では、入居契約書に特定の条件下での退去要件を定めています。入居後に後悔しないため、事前に知っておくべき重要なポイントとは?
これで母も安泰だと思っていたが…
「ようやく見つけた、母の年金でなんとかやりくりできる施設でした」
都内在住の本田聡子さん(55歳・仮名)。84歳になる母親を郊外の老人ホームに入居させていました。収入は月13万円の年金だけ。貯蓄も心許ない程度しかありません。その予算内で、かつ評判も悪くない施設を探し出すまでには、半年以上の時間がかかりました。
「母は少し物忘れが出てきたくらいで、身の回りのことは自分でできました。施設に入れば、栄養管理された食事も出るし、話し相手もいる。私にとっても、母にとっても、最善の選択だと考えました」
入居後の母は、施設の暮らしにも慣れ、穏やかな日々を送っているように見えました。聡子さんも、週末に面会に行くのが習慣となり、長年の介護に対する肩の荷が少し下りたように感じていました。
しかし、その平穏は突然、一本の電話によって打ち破られます。入居から1年が過ぎたある日の午後、施設の職員から聡子さんの携帯電話が鳴りました。
「お母様のご様子で、至急お話ししたいことがあります。すぐに来ていただけますか」
電話口の声は固く、ただ事ではない雰囲気が伝わってきます。聡子さんは仕事を早退し、高速道路を走らせて施設へと急ぎました。施設に到着した聡子さんが見たのは、想像を絶する光景でした。共有の談話室で、母が他の入居者に向かって大声で叫んでいたのです。
「あんたが私のものを盗んだんだろう! 泥棒!」
その剣幕に、他の入居者はおびえ、遠巻きに見ています。職員が必死になだめようとしますが、母の興奮は収まりません。聡子さんには、そこにいるのが自分の母だとは、にわかには信じられませんでした。別室に通された聡子さんは、施設長から厳しい現実を告げられます。
「お母様は、ここ数ヵ月で認知症の症状が急速に進行されています。特に被害妄想が強くなられ、他の入居者様への暴言、ときには暴力、そして夜間には徘徊が続いています。職員も付きっきりで対応していますが、残念ながら、これ以上ここで穏やかにお過ごしいただくのは困難です」
そして、施設長は決定的な言葉を口にしました。
「大変申し上げにくいのですが、入居契約に基づき、今月末で退去していただくことになります」
聡子さんの頭は真っ白になりました。「退去? そんな、聞いていません」。すがるような聡子さんの言葉に、施設長は淡々と続けます。「入居時にご説明し、契約書にも記載されている事項です」
認知症に対応している施設だからと安心していましたが、聡子さんの母の症状は、施設が考える上限を超えてしまったようです。
老人ホーム…契約書に記された退去要件
聡子さんのように、「老人ホームは一度入居すれば安心」と考えている人は少なくありません。しかし、有料老人ホームなどの介護施設は「終の棲家」が保証されているわけではなく、特定の条件下では退去を求められるケースがあります。株式会社Speee/ケアスル 介護が、介護施設の入居経験がある人もしくはその関係者に行った調査があります。それによると、「現在入居している施設は何施設目ですか?」との問いに対し、「1施設目」が61.6%と圧倒的である一方、「2施設目」28.4%、「3施設目」7.2%と、複数に及ぶケースが4割近くありました。自ら退去を決めたにせよ、聡子さんの母のように退去勧告を受けたにせよ、「終の棲家だから安心」というわけではないことは、この調査結果からも想像できるでしょう。
ほとんどの施設の「入居契約書」や「重要事項説明書」には、退去に関する要件が明記されています。主に、以下の3つのケースが一般的です。
1.医療依存度の変化
入居時には自立していても、病状の悪化などにより、施設が提供する医療・看護の範囲を超えるケア(常時の喀痰吸引や経管栄養など)が必要になった場合です。施設の看護体制では対応が困難と判断されると、退去の対象となることがあります。
2.共同生活の継続が困難な場合
聡子さんの母親のケースがこれにあたります。認知症の進行などにより、他の入居者への暴力・暴言、器物破損といった行為が頻繁に見られ、施設側で安全の確保が難しいと判断された場合です。
3.利用料の滞納
定められた期日までに施設利用料の支払いがなく、それが一定期間続いた場合も、契約解除、すなわち退去の理由となります。
これらの要件は、契約時に必ず説明されるべき重要な項目です。しかし、家族も本人も入居が決まった安堵感から、詳細な確認を怠ってしまうことがあります。「まさか」の事態を避けるためにも、契約書や重要事項説明書には必ず目を通し、不明な点はその場で確認することが、自分と大切な家族を守るために不可欠です。
[参考資料]
株式会社Speee/ケアスル 介護『介護施設の転居回数は?「ケアスル 介護」にて介護施設の転居に関わるアンケートを実施』



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