人生100年時代といわれる今、60代も「現役世代」として働き続ける人が増えています。一方で、家計の構造はそのまま――。長年「大黒柱」として家庭を支えてきた男性が、定年前にして“自分の自由になるお金がほとんどない”という事実に直面するケースもあります。今回は、都内在住・年収850万円の会社員・坂井俊彦さん(仮名・62歳)が直面した「家計の現実」と、それに至るまでの背景を見ていきます。

「自分の口座に自由に使えるお金が“ほぼゼロ”」

「正直、俺は何のために働いてきたんだと思ってしまいました」

坂井さんは、大手電機メーカーの技術職。高卒入社後、休職や転職もなく40年以上勤務を続けてきました。長男は独立済みで、現在は妻と次男(大学4年)との3人暮らし。毎朝6時半に出勤し、22時ごろ帰宅する日々が今も続いています。

そんな坂井さんに異変が起きたのは、次男の就活が佳境を迎えていたある春のこと。会社の早期退職制度に関する説明会で「退職後の生活設計」の話を聞いたのがきっかけでした。

「退職後の生活費の試算を出してみてくださいって言われて、家に帰って、通帳と家計簿を出してみたんです。……そしたら、自分の口座に自由に使えるお金が“ほぼゼロ”だってことに気づいて」

月の手取りは約55万円。しかし、住宅ローンの返済が8万円、食費や光熱費、通信費、保険料などで35万円以上が消え、学費・仕送りも含めると、坂井さんの手元に残る「小遣い」は月3万円だったといいます。

金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査](令和5年)』によれば、60代の世帯において「口座は保有しているが、現在残高がない」と回答した人は29.3%。さらに「口座を保有していない」とする人も3.7%おり、約3割が“自由に使える金融資産を実質的に持たない”状態にあることがわかります。

坂井さんのように、長年勤め上げて一定の収入を得てきた人であっても、家計の全体像を把握しないまま現役を終えようとしていたというケースは、実は少なくないのかもしれません。

「家計はすべて妻に任せてきたので、通帳の中身も、クレカの明細も詳しくは知らなかったんです。言われた通りに働いて、毎月家に全部渡して、それでいいと思っていた」

40代のころまでは年収600万円台だったが、50代後半で部長職に就いて以降、年収は850万円近くまで伸びたといいます。にもかかわらず、「自由になる金額がまったく変わらなかった」と坂井さんは言います。

「いや別に、贅沢したいわけじゃないんですよ。ただ、仕事の帰りに1杯飲むことも、映画を観に行くことも、財布の中を気にしながらって……ちょっと情けない気持ちになりますよね」

坂井さんは、特別に浪費癖があるわけではありません。息子の誕生日にケーキを買って帰ること、週に一度のランチを少し贅沢にすること、コンビニで好きな雑誌を1冊買うこと――そんなささやかな楽しみでさえ、財布の中身を気にしながらという現実に、ふと虚しさを覚えるといいます。

ただ、「自分の意志でお金を使えない」という状況に、徐々に息苦しさを感じていたとのこと。

「将来のため、家族のためと思ってやってきたけど、何か違うかもしれないと初めて思ったんですよね。今、自分がこの家計の中で“ただのATM”だったのかもしれないと気づいてしまって……」

定年後に自由になる人と、失う人の違い

「定年後、夫婦で旅行を」――そんな言葉が理想として語られることも多いですが、実際には定年後に夫婦関係が悪化するケースもあります。

背景にあるのは、「経済的な依存関係」や「お金の主導権」の偏りです。特に長年“お小遣い制”に慣れてきた夫が、退職後に年金や退職金の管理も妻に握られたままという構図も少なくありません。

退職金についても、税金の控除額や受け取り方(分割 or 一括)によって手取りが大きく異なるため、計画的な運用が求められます。

坂井さんは現在、勤務先が推奨するファイナンシャルプランナーとの個別相談を受け、「家計を“見える化”することからやり直そう」と考えています。

「別に、妻を責めたいわけじゃないんです。でも、自分がこのまま定年を迎えていたら……今頃、本当に“自分の人生って何だったんだろう”って後悔していたかもしれません」

坂井さんは、今月から家計簿アプリを使って家の支出を“自分の目で確認する”ようになったといいます。週末には妻と一緒に、将来の住まいの話や資産の使い方について話し合う時間も持つようになりました。

「遅かったけれど、気づけてよかった。あと何年働けるかわからないけれど、自分の意志で人生を選べるようになりたいですね」

(※写真はイメージです/PIXTA)