自由民権運動の主導者として有名な板垣退助(いたがきたいすけ)。彼の名言といえば「板垣死すとも自由は死せず」が思い浮かぶだろう。
この言葉が、死の間際の言葉ではないということは知られている話だが、そもそも板垣自身の言葉ではない可能性がある、ということはご存じだろうか。

板垣退助ってどんな人?
生まれは土佐藩の上級藩士、幼少期はとてもわんぱくで手におえない悪童だった。
20歳の頃、けんかが原因で神田村に蟄居(ちっきょ)生活を命じられたことが、板垣の転機となる。ふつうに生活する庶民と、身分を問わずに交わる機会を得たのである。

その後、命じられていたよりも1年早く許され、このころから勉学・武術・馬術にも励むようになる。こうして、立派な青年となった板垣は、江戸藩邸での勤務を命じられるなど、さまざまな要職に就いていくこととなるのである。

1868年、戊辰(ぼしん)戦争ぼっ発。明治政府を樹立した薩摩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟の戦いである。

板垣は東山道先鋒(とうさんどうせんぽう)総督府参謀の肩書きにて土佐藩兵を率い、新政府軍の勝利に貢献したのであった。この功績によって明治政府の中枢に据えられることになるのである。

このころの明治政府は、西洋の国々に対抗するため、近代化を急いでおり、富国強兵をつよく推し進めていた。
この急激な近代化は政府と民衆の間に溝を作った。

1873年に徴兵令が公布されると、士族たち約190万人が職を失ったことによる士族反乱がぼっ発。一方で、徴兵の対象となる農民などからも不満が噴出し、血税一揆にも発展していった。

この事態をしかたないと考える大久保利通らに対し、維新に尽力したはずの士族を見捨てることに西郷隆盛板垣退助は反発。どちらかが政府から離れるのは時間の問題だった。

結果、外交問題をきっかけに西郷と板垣は辞表を提出する。

その後板垣は、愛国公党を設立し、議会の設立を目指すのである。一部の政治家が支配する政府ではだめだ、選挙で選ばれた人物によって政治は行われるべきだと主張した。

こうして、これまで身分制度のはっきりしていた民衆に、自由や権利という考え方そのものを教えるべく、故郷の土佐に戻り、立志社を設立。さらに学校を作ったのである。

もともとは、士族のための学校だったのだが、農民など学問とは縁遠かった人々も集まるようになり、その向学心に板垣もとても驚いたという。

やがて板垣の活動は「自由民権運動」と呼ばれ、憲法の発布と国会の開設まで続いていくことになるのである。

■板垣の名言の謎
1881年、10年後に議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成。板垣は党首となる。
以後、全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた1882年の4月、岐阜で遊説中に襲われたのだ。

板垣は、7ヵ所を刺され、出血しながら「吾(われ)死スルトモ自由ハ死セン」と言ったという。これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く知られることとなり、現在まで伝わっているのだが、のちに板垣は「アッと思うばかりで声も出なかった」とも言っている。

さらに新聞の取材で、この言葉は、当時同行していた内藤魯一(ろいち)が事件時に叫んだ言葉であったが、内藤は板垣が言ったことにしてしまった、という話もある。

実際のところ、諸説あるのだが、真実は未だによくわかっていないのだ。ただ、この時期の板垣がそれだけ人気のある英雄的存在だった、という裏付けにはなるのかもしれない。

■まとめ
 ・「板垣死すとも自由は死せず」は、どうやら都市伝説
 ・「声も出なかった」と本人も語っている…
 ・国民からの人気の高さが「名言」として残された

こうして生き延びた板垣退助は、無事に帝国議会の開設という目的を達成し、その後も議会政治に尽力した。
ちなみに板垣を刺した犯人は、小学校の教員で真面目な性格だったという。のちに恩赦で釈放された犯人は、真っ先に板垣のところへ謝罪に訪れ、板垣も彼が日本の将来を思って行動した結果だから、と許した。という逸話が残っている。