ゴッホにも影響を与えた画家・歌川広重(うたがわ ひろしげ)。国内はもちろん海外にも浮世絵を広めた立役者となったが、「東海道五十三次」は「本当に見てきたの?」と思える部分が多いのはご存じだろうか?

箱根には存在しない巨大な岩山がそびえ立ち、温暖な静岡県は雪の降る夜として描かれたりと、実際に旅をして描いたという説はかなり怪しい。京都では石に改築された橋の脚柱が200年前の「木製」のまま描かれるなど、フシギがいっぱいの作品なのだ。

■箱根にナゾの岩山が登場
歌川広重は1797年に、火消同心の子として江戸に生まれる。安藤広重と記されることもあるが、
 ・本名 … 安藤重右衛門
 ・号(ペンネーム) … 歌川広重
が混ざっているので、この表現は誤りだ。出世作である「東海道五十三次」が描かれたのは1833年、このとき広重は37歳なので遅咲きのデビュー作である。1832年8月に京都でおこなわれる儀式のため、幕府の命で一行とともに東海道を旅し、その際に見た光景が描かれたとされているものの、本当に見た?とおもわず疑いたくなる部分がある。江戸を離れるほどにフシギな点が増え、「東海道名所図会(ずえ)」と呼ばれる「観光ガイド」に似た絵も多く登場するのだ。

まずは箱根で、傾斜角80度(!)ほどの岩山が描かれているが、このような山は現存しないし存在した記録もない。芸術としてデフォルメされているのは理解できるし、旅人が苦労した場所なのも事実だが、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれるように壮絶な急斜面が続くわけではない。行ったことのないひとが「天下の険(けん)」をイメージできるにせよ少々やり過ぎだ。後生の作品「義経一代記之内」にもそっくりな絵があることからも、広重の「脳内」箱根の可能性が高い。

続く16番目の宿・蒲原では、目を疑いたくなる光景に仕上げられている。温暖で知られる地を「夜の雪」と題し、雪深い北国のように描いているのだ。記録によれば広重がこの地を訪れたのは真夏で、もちろん雪など降るはずがないし、たとえ冬でもこれほど降るのか疑問だが、底冷えするような寒い夜を表現し「傑作品」とまで評されている。芸術性の高さは別として、訪れたことのないひとに誤解を与えないか心配になる。

■200年前の京都にタイムスリップ?
極めつけは京都の三条大橋で、長さ約108メートル幅約7.3メートルの巨大な橋を、スケール感豊かに「200年前の姿」で描いている。石に変更されたはずの橋ゲタが木製のままになっているのだ。

脚柱が変更されたのは1590年で、軍事上の理由から豊臣秀吉の部下が強度の高い石に変更したことは史実として残されている。それを実際に行ってスケッチしたのであれば、200年も前の姿に描くなどあり得ない話である。
歌川広重は本当に東海道を歩いたのか? 最近の研究では「旅していない」説が強く、
・箱根を過ぎたあたりからフシギな点が増える
・京都に近づくほど「東海道名所図会」の挿絵と似た作品が増える
に加え、幕府に同行を命じられる以前の1832年3月に隠居していることが判明し、そのうえで同道させられるのは不自然では?と考えられているからだ。

残念ながら決着には至らず真相はナゾのままだが、世界に影響を与えた画家であり、江戸庶民に娯楽を提供したエンターティナーであることに違いはない。それよりも、1619年に伏見/淀/枚方/守口の4つの宿(しゅく)が追加されているので、五十七次だったら良かったのに、と思う次第だ。

■まとめ
 ・東海道五十三次には、存在しない山/降るはずのない雪など、フシギな光景が多い
 ・京都の三条大橋は、200年前の姿で描かれている
 ・幕府に命じられ東海道を旅した、が定説だが、その前に隠居していた説も強い