エレキテルで有名な平賀源内(ひらがげんない)には、じつはたくさんの発明品があります。燃えない布の火浣布(かかんぷ)、万歩計、寒暖計、磁針器、などその数はなんと100種以上になります。

そのなかに、ぜんまいと火打ち石を使った「刻みたばこ用点火器」、現代にも通用する構造のライターも含まれていたのです。

じつはこの発明家としての顔は、源内の持つ多くの肩書のうちのひとつでしかありません。彼は多くの分野に興味を持ち、稀代の天才と呼ぶにふさわしい人物だったのです。

好奇心旺盛な自由人

本草(ほんぞう)学者・発明家・蘭学者・起業家・戯作家・鉱山家…これは平賀源内というひとりの人物の肩書の一部です。

源内はもともと高松藩にて、本草学という薬についての学問や儒学を学び、薬坊主格という役職に就いていました。その博識ぶりは藩主の松平頼恭からも一目おかれ、25歳の時に1年間の長崎行きを命じられます。

このころの長崎は、日本で唯一海外文化に触れられる場所でした。好奇心旺盛だった源内は、医学や油絵などを学び、珍しい舶来品に胸をときめかせていました。その後、高松藩へ戻ったのはいいものの、居ても立ってもいられなくなった源内は、藩の役職を降り、さらには妹婿に家督も譲ってしまったのです。身軽になった源内は、他の藩に仕官しないという約束をして、28歳で江戸へ繰り出します。

まず、本草学者へ弟子入りし、漢学を習得するために林家にも入門し、聖堂に寄宿します。2回目の長崎では鉱山の採掘や精錬の技術を学び、その後、伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーにもなりました。

さらには日本初の物産展を開催します。薬草や薬品をメインにしたこの物産展のスゴイところは3つ。海外からとんでもない値段で輸入していたものも、日本のどこかで見つかるかもしれないこと。地方間での流通と物流が生じること。実際に見ることで、本草学者の勉強になること。これを定期的に開催し、江戸での注目を浴び、杉田玄白や中川淳庵との繋がりを得ることもできたのです。

しかし、この評判を聞いて、高松藩の松平は源内を呼び戻します。せっかくこれからがチャンスだというときに、源内に命じられたのは貝殻の採取でした。

こうして源内は脱藩を決意するのです。その退職願には「わがままに自分のしたいことをするために脱藩したい」と、正直に書かれていたとのことでした。

■こうして肩書は増えていった!

江戸にもどった源内は、「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」という戯作を発表し、ベストセラー作家になります。また、「風来六部集」で浄瑠璃作家としても活躍した一方で、「放屁論」というおならを論じた超絶クダラナイ著作もありました。

埼玉の秩父では石綿を発見し、火浣布作成に成功します。ついでに炭焼、荒川通船工事の指導なども秩父にて行います。その実績を買われ、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、さらに秋田藩士に蘭画の技法を伝え、秋田蘭画の誕生に多大な影響を与えました。

日本初のコピーライターとしても有名です。「漱石香」という歯磨き粉に「効くか効かないかわかんないよ」という悪ふざけのようなコピーを付けたところ、江戸の人々にとてもウケたといいます。夏、全く売れないうなぎ屋のために「土用の丑の日うなぎを食べる」といった宣伝文句を作ったという話もあります。

今では初詣の定番、破魔矢(はまや)ももとは源内のアイデアです。

これだけ多方面にわたる才能を持ちつつも、当時の源内は変人扱いされ、社会に受け入れてもらえませんでした。やがて彼自身も世間に対して背を向け、著作では幕府行政の様々な矛盾を痛烈に批判していました。

■まとめ

 ・平賀源内は「刻みたばこ用点火器」など、数多くの発明品を生み出した

 ・「土用の丑の日」にうなぎなど、コピーライターとしても活躍

源内の最期は、人をあやまって殺害してしまい、投獄され、破傷風が原因で獄死という悲しいものでした。

墓標を建てたのは、親友の杉田玄白。彼は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と墓標に刻み、その最期を惜しんだのでした。

(沼田 有希/ガリレオワークス)