
仕事中心だった生活が終わり、これからは「二人の時間」が増える――定年退職は、多くの夫婦にとって人生の節目です。一方、このタイミングで、夫婦関係の力関係や価値観の違いが一気に表面化するケースもあります。長年「当たり前」として続いてきた役割分担が、定年を境に崩れ、思いもよらない決断に至ることもあるのです。
「もう役目は終わりだろ」と言われた夜
「正直、耳を疑いました。冗談かとも思いましたよ」
そう語るのは、神奈川県内に住む主婦・久保田雅子さん(仮名・64歳)。
夫の弘之さん(仮名・65歳)は、大手メーカーに勤め上げ、定年を迎えました。退職金は約3,200万円。住宅ローンはすでに完済しており、年金も満額に近い見込みでした。
退職祝いの食事を終えた数日後、自宅のリビングで、夫は唐突にこう切り出したといいます。
「もう自由に生きたい。正直に言うと、離婚したい」
理由を尋ねると、返ってきたのがこの言葉でした。
「子育ても終わったし、君の役目はもう終わりだろ」
30年以上、専業主婦として家庭を支えてきた雅子さんにとって、その言葉は理解を超えるものでした。
さらに雅子さんを凍りつかせたのは、夫が差し出した通帳の中身でした。そこに記されていたのは、夫名義の預金残高と、退職金の入金記録。
「生活費は当面払うけど、あとはそれぞれでやっていこう」
夫はそう言い、財産分与についても「話し合えばいい」とだけ告げました。
雅子さんは結婚以来、家計管理を一任されていたわけではありません。生活費は毎月決まった額を受け取り、貯蓄や資産形成は夫が主導してきました。そのため、自分名義の預金はほとんどなく、「老後は夫婦で支え合うもの」と信じてきたのです。
「通帳を見た瞬間、これから一人でどう生きていけばいいのか、頭が真っ白になりました」
厚生労働省『人口動態統計(令和6年概況)』によると、年間の離婚件数は18万5,904組。そのうち同居期間20年以上の熟年離婚は年間4万686組にのぼり、全体の約2割を占めています。
「財産分与」や「年金分割」
離婚に際しては、財産分与や年金分割といった制度があります。
年金分割制度を利用すれば、婚姻期間中の厚生年金記録を分け合うことは可能です。しかし、手続きには期限があり、内容を理解しないまま話し合いが進むと、不利な条件を受け入れてしまうケースもあります。
「もっと早く、制度のことを知っていれば…」
雅子さんは現在、弁護士や年金事務所に相談しながら、離婚条件の整理を進めています。
定年は、人生の終わりではありません。しかし同時に、これまで見えなかった関係性の歪みを浮かび上がらせる節目でもあります。
退職金や年金という「お金」が動くとき、夫婦の前提が音を立てて崩れることがある――この現実は、決して他人事ではないのかもしれません。



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