
定年後は、これまで我慢してきた旅行や趣味を楽しみたいと考える人も少なくありません。十分な年金や貯蓄があれば、老後の楽しみも広がります。しかし、子ども世帯の育児や生活を支えるうちに、予定していた暮らしが少しずつ変わってしまうこともあります。孫をかわいいと思う気持ちと、日々の負担は別の問題です。
「いつでも預かるよ」…善意から始まった孫中心の毎日
隆夫さん(仮名・65歳)と妻の美代子さん(仮名・64歳)は、長年共働きで働いてきました。退職後の夫婦の年金見込みは月33万円ほど。貯蓄も約5,000万円あり、住宅ローンはすでに完済しています。
二人には、定年後にやりたいことがたくさんありました。まずは北海道へ行き、春には京都、秋には九州。海外旅行も、体が元気なうちに何度か行きたいと話していました。
「ようやく二人の時間ができるね」
美代子さんは、そう言って旅行雑誌を広げていました。
ところが、退職から半年ほどたった頃、近くに住む長女夫婦の生活が忙しくなります。長女は職場復帰したばかりで、夫も残業が多い時期でした。保育園の迎えに間に合わない日があり、美代子さんが孫を預かるようになりました。
最初は週に一度だけでした。
「困ったときはいつでも言って」
美代子さんは、そう声をかけました。隆夫さんも孫と遊ぶ時間を楽しみにしていました。小さな手で抱きつかれ、「じいじ、遊ぼう」と言われると、疲れも忘れました。
しかし、預かる頻度は少しずつ増えていきました。保育園のお迎え、夕食、習い事の送迎、土曜日の預かり。長女夫婦からすれば、近くに祖父母がいることは大きな安心でした。
「今日だけお願い」
「今週だけ助けて」
「来月まで忙しくて」
その言葉を聞くたび、美代子さんは断れませんでした。
いつしか夫婦の予定は、孫のスケジュールを中心に組まれるようになりました。旅行は延期になり、温泉宿の予約もキャンセルしました。孫の体調不良で急に呼び出されることもあり、遠出の計画を立てること自体が難しくなったのです。
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得約22.2万円に対し、消費支出は約26.4万円で、平均では毎月約4.2万円の不足が生じています。隆夫さん夫婦は平均より年金も貯蓄も多く、金銭面では比較的余裕がありました。それでも、孫の食費や習い事の送迎、外出費、おもちゃ代などは積み重なっていきます。
問題はお金だけではありませんでした。
夕方に孫を迎えに行き、夕食を食べさせ、長女が迎えに来るまで遊び相手をする。そんな日が続くと、美代子さんは夜にはぐったりしていました。隆夫さんも、公園で走り回る孫についていくのが少しずつつらくなっていきました。
「老後は旅行三昧のはずだったのにね」
ある夜、美代子さんがそうつぶやくと、隆夫さんは黙ってうなずきました。
「かわいい」だけでは続かない…祖父母にも必要な線引き
転機となったのは、夫婦で計画していた北海道旅行の直前でした。長女から電話があり、孫の保育園が休園になったため、数日間預かってほしいと言われたのです。
美代子さんは、すぐには返事ができませんでした。
「その日は旅行なの」
そう伝えると、長女は困った声で言いました。
「えっ、どうしても無理? 仕事を休めないんだけど」
電話を切った後、美代子さんは涙ぐみました。
「私たちの予定は、いつも後回しなのね」
隆夫さんも、その言葉に胸が詰まりました。孫はかわいい。長女夫婦を助けたい気持ちもあります。しかし、二人の老後は、孫のためだけにあるわけではありません。
厚生労働省の「地域子ども・子育て支援事業」では、放課後児童クラブやファミリー・サポート・センター事業など、地域全体で子育てを支える仕組みが設けられています。実際には祖父母が日常的な預かりや送迎を担っている家庭もありますが、その負担が見えにくいまま続くこともあります。
後日、隆夫さん夫婦は長女夫婦と話し合いました。
「預かりたくないわけじゃない。でも、毎週のように予定が入ると、私たちの生活がなくなってしまう」
話し合いの結果、預かる日は週2回までに決めました。急な預かりは、まず長女夫婦が職場や地域の支援制度を確認する。食事や送迎にかかる費用も、必要に応じて渡してもらう。祖父母の旅行や予定は、原則として優先することにしました。
最初は少し気まずさもありました。しかし、線引きをしたことで、孫と会う時間はむしろ穏やかなものになりました。疲れ切った状態で預かるのではなく、余裕のある日に一緒に遊べるようになったからです。
「孫のためなら何でもしてあげたいと思っていました。でも、それでは長く続かないんですね」
隆夫さんはそう話します。
老後資金に余裕があったとしても、時間や体力には限りがあります。年金月33万円、貯蓄5,000万円という数字だけを見れば、恵まれた老後に見えるかもしれません。しかし日々の予定が孫中心になれば、夫婦が望んでいた暮らしは少しずつ遠のいていきます。
祖父母の協力は、子育て世帯にとって心強い支えです。ただしそれが当たり前になれば、親世代の生活や健康にも影響します。
孫をかわいがることと、すべてを引き受けることは違います。
隆夫さん夫婦が学んだのは、断ることは冷たさではなく、家族関係を長く続けるための大切な線引きだということでした。



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