高齢の親と中高年の子どもが同居する「8050問題」は、もはや一部の家庭だけの話ではありません。長引く不況や雇用環境の変化を背景に、親の年金に依存して暮らす中高年の子どもは全国に存在します。しかし、その関係が長期化した先で何が起きるのでしょうか。年金暮らしの父親と無職の息子がたどったある家庭の現実を通して、親子依存の末路についてみていきます。

父の年金で暮らす息子

東京都郊外の築42年の戸建てで暮らしていた佐藤一郎さん(80歳・仮名)は、近隣では穏やかな人として知られていました。

大手メーカーの工場勤務を定年まで続け、退職金の一部で住宅ローンを完済しました。妻を10年前に病気で亡くしてからは、一人息子と二人暮らしでした。

息子の佐藤健太さん(52歳・仮名)は、今は働いていません。大学卒業後、営業職や配送業などを転々としましたが長続きせず、40代半ばには職を離れていました。

「人間関係が面倒なんだよ」

そう言っていた健太さんは、やがて求職活動そのものをやめました。生活費はすべて父親に頼っていました。

一郎さんの収入は公的年金と企業年金を合わせて月20万円ほどです。固定資産税を月換算で約1万円、光熱費が2万円前後、通信費が8,000円、食費が5万円。そこに健太さんの酒代やたばこ代、ネット通販の利用分などが加わると、毎月の支出は17万円近くに達していました。

しかし、それはあくまで把握可能な固定費。実際にはこれに加え、健太さんの度重なる使途不明金や臨時の出費が重なり、貯蓄の取り崩しが常態化。その結果、貯金は70代前半には1,500万円ありましたが、80歳になる頃には700万円を切っていました。

「少しは働いてくれないか」

一郎さんは何度も口にしました。しかし健太さんは決まってこう返しました。

「今さら雇う会社なんかないだろ。俺だけの問題じゃない。社会が悪いんだ」

親子げんかは近所にも聞こえていました。それでも翌日になれば、一郎さんはスーパーで食材を買い、健太さんの分も食卓に並べました。知人からは施設入居や家の売却を勧められましたが、一郎さんは首を横に振りました。

「私が死んだら、この子は本当に一人になるから」

少しずつ崩れる生活

内閣府『こども・若者の意識と生活に関する調査』によると、40~64歳の中高年ひきこもりは全国で推計61万3千人に上ります。半数以上が期間が7年を超え、親の収入に依存して生計を立てている割合も3割強に達するなど、事態の長期化と高齢化が浮き彫りになっています。

そのようななか、一郎さんは78歳を過ぎた頃から足腰が弱くなりました。買い物袋を持つのもつらくなり、病院通いも増えました。

それでも健太さんは働こうとはしませんでした。朝は昼近くまで寝て、夜中まで動画配信やゲームを続ける生活でした。

ある日、一郎さんは病院の待合室で隣に座った知人に漏らしました。

「私が倒れたら、息子はどうするんだろう」

実際、その頃には貯金の取り崩し額が年間100万円を超え、介護保険料や医療費負担も年々重くなっていました。それでも健太さんは現実を見ようとしませんでした。

「親なんだから面倒見るのは当たり前だろ」

そう言い放ったこともありました。一郎さんは反論しませんでした。反論しても何も変わらないと知っていたからです。

ある朝の異変

冬のある朝。いつものように健太さんが昼近くに目を覚ますと、居間で一郎さんがうずくまっていました。顔色は明らかに悪く、呼びかけにも反応が鈍かったといいます。異変に気づいた健太さんは救急車を呼びました。

救急隊員が到着し、一郎さんはそのまま病院へ搬送されました。ストレッチャーに乗せられた父親を見送りながら、健太さんは落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っていました。しかし、その直後に漏らした言葉に、居合わせた親族は耳を疑ったといいます。

「親父がいなくなったら、どうやって生きていけばいいんだよ」

父親の容体を心配する言葉ではありませんでした。これから自分の身に起きる現実への恐怖と苛立ちが先に出たように見えた、と親族は振り返りました。

その日の夕方、病院から連絡が入りました。命に別状はなかったものの、一郎さんはしばらく入院が必要な状態でした。一人での生活は難しく、退院後も介護サービスの利用や生活環境の見直しが必要になる可能性が高いという説明を受けました。

その瞬間、健太さんは、これまで当たり前のように存在していた父親の支えが永遠ではないという現実に初めて直面しました。

月20万円の年金で維持されていた生活は、一郎さんの健康があって初めて成立していたものでした。家の固定資産税、光熱費、通信費、食費――これまで父親が支払っていたものを、自分はどれだけ把握しているのでしょうか。

入院から数週間後、一郎さんは退院しました。しかし以前のような生活には戻れませんでした。歩行には杖が必要となり、買い物や通院にも付き添いが求められるようになりました。それでも健太さんは、すぐには働き始めませんでした。

「今さら何をすればいいんだよ」

そう漏らしたこともあったといいます。一方で、一郎さんは以前よりも頻繁に「私がいなくなったら、この子はどうなるんだろう」と口にするようになりました。

子ども自身が社会との接点を失い、自立する機会を長年先送りした結果、親の老いと同時に人生そのものが行き詰まることがあります。

救急車のサイレンが鳴ったあの日、一郎さんの人生だけでなく、健太さんの人生もまた大きな転換点を迎えていました。ただ、その現実を受け入れる準備が52歳の息子にどこまでできていたのか、その答えはまだ誰にもわかりません。