
定年後も働き続けることが当たり前になった一方で、再雇用後の待遇や職場での立場の変化に戸惑うシニアは少なくありません。役職定年や賃金低下だけではなく、これまで築いてきたキャリアや自尊心との向き合い方も大きな課題となっています。再雇用後に思いもよらぬ現実に直面した男性の事例を通じて、シニア就労の見えにくい問題をみていきます。
年収が3分の1でもありがたい
「まさか、自分がこんな扱いを受けるとは思いませんでした」
大手メーカーの関連会社で再雇用として働く田中健一さん(61歳・仮名)。大学卒業後は営業一筋、50代後半には部長職に就任。部下は40人近くを抱え、年収は1,000万円を超えていました。取引先との会食や出張も多く、忙しい毎日でしたが、「会社に必要とされている」という実感がありました。だからこそ、60歳の定年を迎えたときも、再雇用制度を利用して働き続けることに迷いはなかったのです。
東京都郊外、自宅の住宅ローン返済は残り約720万円。妻との生活費は月28万円ほどかかります。65歳から受け取れる年金見込み額は月19万円程度。2歳年下の妻が年金を受け取るようになっても、夫婦で27万~28万円程度。手取りにすると23万~24万円程度です。
「まだ辞めるわけにはいかない」
それが率直な気持ちでした。
総務省の『労働力調査』によると、2024年の65歳以上の就業者は過去最多の930万人に上ります。しかし役員を除く雇用者の76.9%が非正規であり、多くが大幅な待遇の変化や職場での扱いに戸惑いを感じています。
田中さんの場合、再雇用後の給与は月給23万円。各種控除後の手取りは18万円ほどになりました。年収ベースでは約3分の1です。それでも、働き続けられるだけありがたいと考えていました。しかし、問題は給与だけではありませんでした。
新しい上司、新しい仕事の進め方
再雇用後、田中さんはグループ会社に配属。役職はなくなり、肩書は一般の契約社員です。直属の上司になったのは29歳の課長。入社7年目の若手社員です。
当初、田中さんは「年齢差はあっても仕事だから」と割り切ろうとしていました。ところが現場では、これまでの経験がほとんど評価されませんでした。会社は数年前からDXを推進しており、業務管理も営業分析もクラウドシステム中心へ移行していました。
田中さんは基本操作はできるものの、若手社員ほど使いこなせません。会議中も、「田中さん、それ先週説明しましたよね」「データの見方が違います」などと指摘される場面が増えていきました。
厚生労働省の令和7年「高年齢者雇用状況等報告」によれば、企業の99.9%が65歳までの雇用確保措置を実施しており、中でも65.1%が「継続雇用制度」を採用しています。多くの人が定年後も同じ会社で働き続ける道を選んでいますが、田中さんのように再雇用後は役職を外れ、一兵卒として若手の下につくなど、これまで築き上げたプライドとの間で葛藤を抱える現実があります。
田中さんも頭では理解していましたが、感情が追いつきません。かつて自分が育てた年代の社員たちから指示を受ける毎日。会議室で発言しても、「それは今のやり方とは違います」と遮られることもありました。
ある日、若手社員数人がいる前で、直属の上司からこう言われました。
「正直、この業務内容だと戦力になっていません」
場の空気が凍りました。田中さんは何も言い返せませんでした。さらに追い打ちをかけるように、「今のやり方しか知らない人は厳しいですよ」と言われたのです。帰宅後、夕食の席でもほとんど口を開きませんでした。異変に気づいた妻が尋ねました。
「会社で何かあったの?」
そのとき初めて、胸の内を打ち明けました。
「今の子たちのやり方に、ついていけないんだ」
妻は黙って聞いていました。
妻に漏らした本音
それ以降、田中さんは会社へ向かう足取りが重くなりました。朝5時に目が覚めても布団から出られない日が増えました。収入面でも余裕はありません。手取り18万円から住宅ローン、管理費、光熱費、通信費を支払うと残りはわずかです。物価上昇も家計を圧迫していました。
仕事を辞めれば生活設計が崩れる。しかし働き続けても、自尊心が削られていく――その板挟みでした。
ある夜、晩酌をしながら妻に言いました。
「会社に行くたび、自分が小さくなっていく気がする」
「使えないって言われるのは仕方ない。実際、若い人たちのほうが仕事は速い。でもな……」
「38年働いてきた結果、これだ。惨めなんだよ」
再雇用制度は、高齢者の就業機会を支える重要な仕組みです。一方で、働く側にとっては収入だけでは測れない問題があります。
肩書を失うこと。 評価される基準が変わること。 そして、自分自身の価値をどこに見いだすのかという問いです。
61歳の田中さんは、いまも毎朝会社へ向かっています。住宅ローンの返済はあと5年。生活のために働き続ける必要があります。ただ、かつて部長だった自分と、いまの自分をどう折り合いをつけるのか。その答えは、まだ見つかっていません。



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