住宅ローンや教育費、親への援助、保険料などの支出が重なれば、収入があっても思うように資産形成が進まないケースは少なくありません。家計管理を配偶者に任せきりにしていると、定年が近づいたころに初めて、想像していた老後資金との大きな差に気づくこともあります。

「俺は我慢してきた」…月3万円の小遣いで働き続けた37年

亮平さん(仮名・59歳)は、大学卒業後に入社したメーカーで37年働いてきました。数年前に役職定年を迎えたものの、現在も年収は約850万円。後進の育成や重要案件を任される立場として忙しい日々を送っていました。

家計管理は、結婚当初から妻の由美子さん(仮名・57歳)が担当していました。亮平さんの小遣いは月3万円。昼食代や飲み会代の一部もそこから出していたため、決して余裕があるとはいえませんでした。

「俺はずっと我慢してきたんだから、老後資金はそれなりに貯まっているはずだ」

亮平さんはそう思っていました。自分は高い車を買ったわけでもなく、趣味に大金を使ったわけでもありません。会社員として真面目に働き、家に給料を入れ、月3万円の小遣いでやりくりしてきたのです。

ところが、定年後の再雇用条件について会社から説明を受けたことをきっかけに、夫婦で老後資金を確認することになりました。

「退職金が入る前に、いまの貯金を見ておきたい」

亮平さんがそう言うと、由美子さんは少し表情を曇らせました。翌日、食卓に通帳や保険証券、住宅ローンの残高表が並べられます。

亮平さんは、少なくとも2,000万円以上はあると思っていました。しかし実際に確認すると、すぐに使える預貯金は約620万円。投資信託や保険を含めても、老後資金として安心できる金額には届いていませんでした。

「何かの間違いだろ……」

亮平さんは、通帳を見たまま動けませんでした。

由美子さんは、静かにこれまでの支出を説明しました。子ども2人の大学費用、遠方で一人暮らしをしていた時期の仕送り、双方の親への援助、住宅ローンの繰上げ返済、家電や車の買い替え。さらに、数年前には義母の施設入居に伴う一時費用の一部も家計から出していました。

「言えば、あなたが怒ると思ったの。何とかなると思って、私がやりくりしてきた」

そう言われても、亮平さんはすぐには受け止められませんでした。自分は節約していたつもりでした。けれど、家計全体では、節約していたのは自分の小遣いだけだったのです。

総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得約22.2万円に対し、消費支出は約26.4万円で、平均では毎月約4.2万円の不足が生じています。年金生活では、日常の暮らしだけでも貯蓄の取り崩しが必要になる世帯は少なくありません。

「稼いでいたのに残らなかった」…定年前に見えた家計の現実

その夜、亮平さんは由美子さんを責める言葉を何度も飲み込みました。家計を任せきりにしてきたのは自分です。子どもの進学も、親への援助も、家の維持も、どれも不要な支出だったとは言えません。

ただ、何も知らされないまま「大丈夫」と思い込んでいたことへの悔しさは残りました。

「月3万円で我慢してきた結果がこれか」

思わずそうこぼすと、由美子さんは目を伏せました。

「私も、ちゃんと共有すればよかった。でも、あなたも聞こうとしなかったでしょう」

金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2023年)』でも、老後の生活について心配している世帯は多く、その理由として「十分な金融資産がない」「年金や保険が十分ではない」「物価上昇への不安」などが挙げられています。老後資金への不安は、収入が低い世帯だけの問題ではありません。

亮平さん夫婦は、まず家計の棚卸しを始めました。住宅ローンの残高、退職金の見込み、年金見込額、保険、毎月の固定費、親への援助の有無。数字を書き出すと、何を見直すべきかが少しずつ見えてきました。

再雇用後の収入は大きく下がる見込みです。だからこそ、定年前のいまから支出を小さくする必要がありました。使っていない保険やサブスクを整理し、車の買い替えを先送りし、親への援助についてもきょうだいを交えて話し合うことにしました。

大切なのは、誰か一人に家計を任せきりにしないことです。通帳を見ないまま安心するのではなく、夫婦で定期的に数字を確認し、退職後の生活を具体的に考えることです。

「知らないまま定年を迎えるよりはよかった」

そう自分に言い聞かせながら、亮平さんは家計簿を開きました。37年働いた結果を嘆くだけでなく、これからの暮らしをどう守るか。夫婦の話し合いは、そこからようやく始まったのです。

(※写真はイメージです/PIXTA)