内閣府『令和5年度高齢社会対策総合調査』では、高齢期の住まいについて、介護が必要になっても安心して暮らせることや、生活環境の利便性を重視する傾向が示されています。老後の安心を求め、自宅から有料老人ホームへ住み替える人も増えています。しかし、住まい選びで見落とされがちな問題もあります。ある夫婦の事例を通して、その実態をみていきます。

「老後の安心」を買ったはずだった

「これで、子どもたちに迷惑をかけずに済むと思っていました」

元高校教師の内藤和彦さん(75歳・仮名)、妻の恵子さん(73歳・仮名)。2人は暮らしていた自宅を離れ、有料老人ホームへの入居を決めました。

夫婦の年金収入は月約40万円。預貯金は約5,000万円ありました。毎月の生活費は月25万円ほどで、年金だけで十分。貯蓄もできる水準で、老後資金に大きな不安を抱えていたわけではありません。それでも住み替えを考えたきっかけは、恵子さんの膝の痛みでした。

「階段の上り下りがつらくなっていました。介護が必要になったとき、子どもに負担を背負わせたくなかったんです」

選んだのは、入居金1,000万円/人の高級老人ホームでした。ラグジュアリーホテルのような共用スペース。管理された食事。医療機関との連携。見学時には、スタッフから丁寧な説明を受けました。月額利用料は夫婦で約35万円。年金収入だけで全額をまかなえるわけではありませんでしたが、貯蓄を取り崩せば十分対応できる計算でした。

内閣府『令和6年版高齢社会白書』によると、「住み替えの意向を持つようになった理由」として、「健康・体力面で不安を感じるようになったから」が24.8%でトップとなっています。また、住み替え先に期待することとしても、「医療・福祉施設が充実していること」(967ポイント)や、「手すりなどのバリアフリー対策が施され、高齢者に配慮された住宅であること」(475ポイント)が上位に挙がっています。内藤さんのように、身体の衰えを機に将来の介護リスクへ備え、安心できる環境へ移行する傾向はデータからも明らかです。

食堂で聞こえた入居者の会話

最初の1ヵ月ほどは、内藤さんは新しい生活を楽しんでいました。毎日決まった時間に食事が出る。掃除の負担も減る。妻の体調管理にも安心感がある。ところが、次第に気になることが増えていきました。きっかけは、食堂で聞いた会話でした。

「あの方、前は会社を経営していたみたいですよ」

「息子さんとは相続でもめているらしいです」

「昔から女性関係が派手だったって聞きましたよ」

入居者同士の会話には、それぞれの過去や家族事情に関する話題が出ることがありました。もちろん、すべてが事実とは限りません。しかし、内藤さんには、その空気自体が負担になっていきました。

「ここでは初対面の人の家庭事情や財産の話が、普通の会話のように出てくる――それが苦手でした」

内藤さんは40年以上、教師として働いてきました。勤務先では、年齢や立場の異なる人たちと関わる毎日でした。ただ、それは教師という役割があったから成立していた関係でもありました。

この老人ホームにいる人たちには、「元社長」「元役員」「資産家の家族」など、“普通”の人たちではない人が多く入居しています。だからでしょうか、入居者の経歴が話題になる場面が多くあったのです。2人も、単に経歴で話が終わるなら気になることはなかったでしょう。しかし話題はさらに先へと進みます。

「あぁ、元経営者。だからちょっと高圧的なのね」

「元会社役員!? 結局、雇われの身だったんだな」

多くの場合、経歴を枕詞に、相手を揶揄したり、蔑んだり――いかにマウントをとるかという展開が多く、聞いているだけでストレスになったといいます。

内藤さん夫婦は、次第に食堂へ行く時間をずらすようになりました。イベントの誘いも断ることが増えました。部屋で過ごす時間が長くなったといいます。そして入居から約120日。内藤さん夫婦は、転居を決めました。

「お金の問題ではありませんでした。払えるかどうかではなく、ここで10年、20年暮らしていけるかを考えました」

退去には費用も発生しました。入居時の費用がすべて戻るわけではなく、引っ越し費用や新しい施設への契約費用も必要でした。経済的には合理的な判断とは言えなかったかもしれません。しかし、内藤さん夫婦にとって問題だったのは、毎日を快適に過ごせるかどうか。

「高いお金を払ったのだから、一生ここにいないといけない……勝手に思い込んでいたんですが、残された時間も有限なのに、今さら我慢する必要があるだろうか――そう考えて、転居することに決めたんです」

転居先に選んだのは、以前の施設より規模の小さい老人ホームでした。豪華な設備はありません。入居者の数も少なく、食堂で自然に会話が生まれる環境でした。

「朝、隣の席の人と天気の話をする。それだけですが、そんな雰囲気が私たちには合っているようです」