将来への不安から、仕事や資産形成を優先することは珍しくありません。しかし十分な資産ができても、病気や事故の際に頼れる人がいるとは限りません。お金の備えと人とのつながりは別の問題です。一人で暮らす期間が長いほど、緊急時に誰へ連絡するかも考えておく必要があります。

目標の1億円に届いた直後…深夜に襲われた激痛

健一さん(仮名・44歳)は、都内のIT企業で管理職を務めています。年収は約1,300万円。独身で、20代後半から一人暮らしを続けてきました。

健一さんが資産形成を始めたのは、父親が病気で働けなくなり、家計が急速に苦しくなった経験があったからです。

「結局、困ったときに自分を守ってくれるのはお金だと思ったんです」

毎月の給与から一定額を貯蓄と投資に回し、昇給しても生活水準をほとんど上げませんでした。会社の持株制度や積立投資も続け、相続した約1,500万円を含め、金融資産は44歳で約1億円に達しました。

一方、仕事以外の付き合いは次第に減っていました。

休日出勤を優先して友人の誘いを断り、学生時代の仲間とも疎遠になりました。30代で交際していた女性から結婚の話を出されたときも、「今は仕事に集中したい」と別れを選びました。

母親は数年前に亡くなり、父親もすでに他界しています。地方に住む姉とは、年に一度連絡を取る程度でした。

それでも健一さんは、寂しいとは感じていませんでした。

「外食も旅行も一人で困らない。人間関係に振り回されず、自由に暮らせていると思っていました」

金融資産が1億円を超えた日の夜、健一さんは一人で缶ビールを開けました。誰かに報告しようとスマートフォンを手にしましたが、連絡したい相手が思い浮かばず、そのまま画面を閉じました。

異変が起きたのは、その約1ヵ月後です。

深夜、腹部に強い痛みを感じて目を覚ましました。しばらく横になっていれば治まると思いましたが、痛みは次第に強くなり、冷や汗も出てきました。

スマートフォンで症状を検索すると、「すぐに受診すべき」とする説明も表示されました。それでも、健一さんは119番に電話できませんでした。

「救急車を呼ぶほどではなかったら恥ずかしいと思いました。それに、病院へ運ばれた後、誰に連絡すればいいのかもわかりませんでした」

会社の部下に頼むことも、疎遠な姉を深夜に起こすこともためらわれました。結局朝まで耐え、痛みがさらに悪化してから自分でタクシーを呼びました。

「資産は1億円。でも、助けを呼べる相手はいなかった」

病院で検査を受けた結果、健一さんはそのまま入院することになりました。

医師から緊急連絡先を尋ねられ、健一さんは言葉に詰まりました。姉の電話番号を書いたものの、住所も勤務先も正確には覚えていませんでした。

入院に必要な物を取りに戻ってくれる人もいません。会社への連絡は病室から自分で行い、着替えや日用品は院内で購入しました。

隣のベッドでは、患者の妻が医師の説明を聞き、必要な荷物を届けていました。その様子を見て、健一さんは初めて自分の暮らしに欠けていたものを意識したといいます。

「資産は1億円になりました。でも、本当に困った夜、助けを呼べる相手は誰もいませんでした。何のために安心を買おうとしていたのかわからなくなりました」

内閣府『令和6年 人々のつながりに関する基礎調査』では、「頼れる人も相談相手もいない」と回答した人は、調査回答者の5.7%でした。日常生活に問題がなくても、病気や事故をきっかけに孤立が表面化することがあります。

総務省消防庁の「救急安心センター事業(#7119)」では、急な病気やけがの際、救急車を呼ぶべきか、すぐに医療機関を受診すべきか迷った場合に、医師や看護師、救急救命士などから電話で助言を受けられます。ただし、実施地域は限られるため、居住地域の利用状況を平時に確認しておくことが必要です。緊急性が高い場合は、迷わず119番へ通報することが重要です。

退院後、健一さんは姉に連絡しました。

「夜中に何かあったら、電話してもいいかな」

姉は驚きながらも、「当たり前でしょう。私も連絡していなくてごめん」と答えました。

健一さんは会社でも、信頼できる同僚と緊急時の連絡方法を共有しました。学生時代の友人にも久しぶりに連絡し、月に一度は食事をするようになりました。

資産形成をやめたわけではありません。ただ、休日をすべて仕事や投資の確認に使う生活は見直しました。

お金は、治療費や生活費に備えるための大切な手段です。しかし、体を動かせないときに連絡をくれる人や、異変に気づいてくれる人まで金融資産で代替できるわけではありません。

健一さんが後悔したのは、人に頼らずに生きることを「自立」だと思い込んでいたことでした。資産残高を確認するのと同じように、緊急時に連絡できる相手や相談先を確かめておくことも、将来への備えといえるでしょう。

(※写真はイメージです/PIXTA)