
長年連れ添った夫婦でも、「家計のことはすべて配偶者に任せている」という家庭は珍しくありません。しかし、その状態は思わぬ事態が起きたとき、大きなリスクになり得ます。妻の急逝で、〈資産3,000万円超〉の72歳男性が直面したのは、「お金がない」のではなく、「お金を使えない」「暮らしを回せない」という現実でした。夫婦の役割分担が生んだ思わぬ落とし穴とは?
“良妻賢母”の妻、突然の逝去
神奈川県内で暮らす江崎修一さん(仮名・72歳)は、現役時代は準大手メーカーで部長まで勤め上げ、7年前に退職しました。一方、妻の倫子さん(67歳)は、結婚以来ずっと専業主婦。家計簿をつけ、銀行口座を管理し、公共料金や保険の手続きを行い、食事や洗濯、掃除を切り盛りする毎日。
「だって、私は働いてないもの。あなたは仕事、私は家のことをきちんとやればいいのよ」
おかげで仕事に打ち込むことができ、ピーク時の年収は1,200万円超。退職後も夫婦の年金収入は月27万円、預貯金は3,000万円を超え、老後のお金に不安を感じることはありませんでした。
しかし、穏やかな老後は長く続きませんでした。 朝食の準備をしていた倫子さんが突然胸を押さえ、そのまま倒れたのです。救急搬送されましたが、帰らぬ人に。あまりにも突然の別れでした。
お布施が払えない…ATMの前で呆然
悲しみに暮れる間もなく葬儀の手配が始まりました。葬儀社との打ち合わせで、葬儀代は後日振込になるものの、お寺へのお布施が現金で必要と言われたとき。それが、“最初のつまづき”でした。
「……まいったな、暗証番号がわからんぞ」
お布施は30万円。しかし、銀行口座から自分でお金を引き出すことがなかった修一さんは、暗証番号を覚えていません。心あたりのある番号をいくつか入力するも、虚しくエラー音が響きます。3回目で画面に「窓口でお問い合わせください」の表示が浮かび上がりました。
葬儀を控えて当日にそんな時間は取れず、やむなく長男の聡さんに頭を下げました。
「すまん、ちょっと貸してくれないか。すぐ返すから……」
もちろん聡さんは快くお金を貸してくれました。しかし、頼れる父親”として生きてきた修一さんは、息子に金を借りる日が来るなど、一度も想像したことはありませんでした。妻がいなくなったら「こんなこともわからないのか」。自分に落ち込みました。
しかし、これは序の口でした。
普通のことができない自分、聞く相手がいない現実
亡き妻が用意してくれていた朝昼晩の食事も、自分でなんとかしなくてはなりません。総菜や弁当に頼りながらも、「こればっかりじゃ、ちょっとな」とレシピ本を見ながら鶏肉の照り焼きと野菜炒めを作りました。味は上出来で、「自分もやればできる」と少し誇らしい気持ちになりました。
ところが、食べた後の皿を食洗機に入れようとするものの、どれが食洗機対応でどれがNGの和食器なのか判断がつきません。油まみれのフライパンに野菜クズ。生ごみを溜めて数日放置しただけで、台所からは悪臭が漂い始めました。
洗濯機も最初は使い方がわからず苦労しました。ボタンを押してもピーピーと音が鳴り、止まってしまう。原因は、給水栓が閉まったままだっただけ。妻なら数秒で気付くことに、修一さんは何日も戸惑いました。
「たったそれだけのことで」と思われるかもしれません。しかし、日常の“当たり前”ができない自分。なによりも、「これ、どうすればいいんだ」と聞ける相手がもういない。そのことに、修一さんは想像以上にダメージを受けていました。
「お父さん、私は絶対にあなたより長生きするからね」
生前、そう言って悪戯っぽく笑っていた倫子さんの言葉を、修一さんはなぜか疑いもせず信じ切っていました。自分が見送られるものだと当たり前に思い込み、残される準備など何ひとつしていなかったのです。
通帳には数千万円という資産があります。しかし、生活力はお金では埋められません。「自分はこんなこともできないのか」という虚無感が、広い自宅にぽつんと一人取り残された修一さんにのしかかりました。
息子の「別に、軽蔑なんかしないよ」という一言
葬儀から2週間後、長男の聡さんが様子を見にやってきました。部屋の端にはほこりが溜まりはじめ、キッチンからは微かに生ゴミの匂いが漂い、届いている封書やDMは机に積まれたまま。何より修一さんの顔には覇気がありませんでした。
父親の「うまくいっていない生活」の痕跡は、隠しきれていません。そんな修一さんに、聡さんは静かに言いました。
「親父、困ってることあったら何でも聞いてよ。電話でもLINEでもしてっていっただろ? ずっと家事を全部お袋に任せてたんだから、急に一人で全部できるわけないだろ。そんなことで誰も親父を軽蔑したりしないよ。うちの奥さんも心配してるんだから」
その一言に、修一さんの肩の力がふっと抜けました。「頼れる父親でいなければならない」「生活力がないなんて恥ずかしい」というプライドが解けていくのを感じました。
「私は、どこかで『自分のお金で家族を養っている、だから責任は果たしている』と思っていました。ですが、妻がいなければ何もできなかったことに改めて気づきました」
夫婦は一緒に死ねない。だからこそ必要な「生活力の備え」
総務省「令和3年社会生活基本調査」によると、家事関連で1日に費やされた時間は、65歳以上では男性が5.1%であるのに対して女性は15.8%。男女で大きな差があることがわかります。
夫婦にはそれぞれ得意・不得意があり、家計管理をどちらか一方が担うこと自体は珍しくありません。しかし、口座や保険、年金、毎月の支払いなど、生活を維持するための情報まで一人しか知らない状態は、大きなリスクになり得ます。
「私は、お父さんより長生きするから」という言葉に悪気はありませんでした。ですが人生は、思い描いた順番どおりには進みません。
残された家族が困らないよう、元気なうちから家計や手続きについて話し合い、必要な情報を共有しておくこと。それもまた、夫婦がお互いにできる「最後の思いやり」なのかもしれません。

コメント