
※本稿は、杉谷和哉『エビデンスの罠 数字と物語に囚われない思考法』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■京都大の自治寮「吉田寮」の入寮選考
筆者は、京都大学大学院人間・環境学研究科に在籍していた頃、「吉田寮」という自治寮に居住していた。
自治寮とは、運営を寮生によって構成される自治会が主体的に担う寮のことを指す。京都大学吉田寮は、日本最古の現役学生寮として知られ、自治寮としても長い歴史を誇る。具体的には、入寮選考、寮内のトラブル処理、衛生管理など、通常であれば管理会社が行うような業務を、全て寮生自身が担うのである。楽しい面もあるが、大体の場合は面倒で大変な仕事である。当然、誰もが前向きに頑張るわけではない。サボる人間もいれば、何やら無駄に力が入って、かえって事態がややこしくなるケースも珍しくなかった。
それでは、自治寮の価値はどこにあるのだろうか。筆者が在寮していた経験から言えば、入寮選考における自治の力は極めて大きかった。たとえば、入寮選考の際には、親の年収などを一応、参考にしているが、そこまで重視しない。どれだけ親の年収が高かったとしても、親との関係が悪く、一切経済援助を受けられない学生もいるからだ。こうした学生にとって、安価に居住できる寮は、大学での学びを支える重要な存在である。一人暮らし用の高価な部屋を借りてしまうと、アルバイトで日々を費やしてしまうからだ。
親の年収という数字を額面通りにしか受け取らないエビデンス主義では、学生のこうした事情を勘案するのは難しい。
■単なる「安価な居住スペース」ではない
吉田寮に居住して得られるのは、安価な居住スペースだけではない。そこには、さまざまな学問を学ぶ学生が集まっており、日夜、お互いの学問について議論を交わすことができる。
また、研究がうまくいかずに気分が落ち込んでいるときは、適当に買ったアルコールを持っていくと、一緒に他愛もない話をしながら飲んでくれる人がいる。落ち込んでいる、悩んでいる人を見かけると、話を聞き、場合によっては解決に向けて皆で動く。一緒に住んでいることで、お互いの経験を共有する機会が多く、親近感も湧いてくる。言うなれば、お互いを気にかけ、思いやりを持って接することができる。このような共同体は時に、「ケアのコミュニティ」と呼ばれるようだ。
本書を執筆している2025年現在、吉田寮と京都大学当局の間で行われていた裁判が和解に至った。詳しい経緯については紙幅の関係もあるので詳述しないが、この間の裁判を見ればわかるように、大学当局と寮の双方に、それぞれの言い分がある。ただ、寮が作り上げてきた自治空間やその機能のポジティヴな側面を、大学当局が正当に評価しているとは言い難いのは確かだ。
大学側の思惑についてはさまざまな風聞があるが、本筋から逸脱してしまうので、ここでは本格的な論評を避けよう。いずれにしても、そこに生きている人々の営為を顧みない大学当局のやり方は、褒められたものではない。
■「エビデンスはあるのか」への違和感
一人ひとりのかけがえのない経験――これを尊重する社会のありようのほうが望ましいのではないか。このような問題提起をした書籍として、現象学を専門とする村上靖彦による『客観性の落とし穴』が挙げられる(※1)。
村上は、社会のありとあらゆる局面においてエビデンスと呼ばれる数値や客観性が重視される状況に疑問を呈している。ただし、「とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知している」と述べているように、村上も決してエビデンスのありようそのものを全否定しているわけではない(※2)。
しかし、数字を妄信し、何かあればすぐに「エビデンスはあるのか」と他者を問い詰める人々が溢れる社会のありようが、本当に望ましいものなのかとの問いの背景には、個別性を消去し、数字やそれに基づく分析だけであらゆる物事を処理しようとする趨勢(すうせい)への違和感があるのは間違いないだろう。
※1 村上(2023)
※2 村上(2023:12)
■「エビデンス重視」と「個人の経験の軽視」
村上によれば、エビデンスを重視する社会がもたらすのは、個々人の経験の軽視である。数字で人々の活動や行動を測る時、必然的に人々の序列化が生じる。
その序列は大抵の場合、「生産性」や「どれだけお金を稼いだか」で決められる。この発想が行きつく先は、「役に立たない」とされる人々を抹殺することを肯定する「優生思想」に他ならない。エビデンスを妄信する社会の行き着く先をこのように描き出したうえで村上は、人々が能力主義に縛られ、競争を強いられている社会のありようを批判する。そして、数字への盲従ではなく、人々の経験や語りを重視することで、「一人ひとりの顔と声から出発して社会を作る」べきだと論じ、それをモデルにした制度を目指すべき姿として提示する。
この事例として村上が着目するのが、相互扶助を基盤としたケアが存在している、大阪の西成(にしなり)に代表されるようなコミュニティである。西成は、貧困をはじめとしたさまざまな困難を抱えている場所ではあるが、だからこそ、エビデンスだけでは把握することのできない、人々の豊かな実践が存在すると村上は論じる。このような「ケアのコミュニティ」は社会の片隅の至る所にあり、それらに社会を変える手がかりがあるのではないか。このような示唆(しさ)を『客観性の落とし穴』は提示するのである。
■大学が学生自治を認めたがらない理由
こうした村上の理路に目をやった時、筆者の胸に去来するのは、最初に示した吉田寮での思い出に他ならない。大学が学生自治を認めたがらず、全てを管理してしまいたいと考えている欲望の根元には、大学ランキングなどといった、学知の序列化の中で落伍者にならないようにしようとする必死さがあるのかもしれない。
あるいは、京都大学が名乗りを上げている、「国際卓越研究大学」の事業も関係しているだろうか。「国際卓越研究大学」とは、文部科学省が設立した10兆円規模の大学ファンドからの支援を受けるプログラムで、認可された場合にはさまざまな改革メニューを実行する必要がある。大学の管理が及ばない自治寮を放置していることは、このプログラムの認可にとってマイナスに働くと大学の上層部は考えているのかもしれない。
寮を潰し、その敷地内に効率的な運営を主眼においた管理寮を設置すれば、文部科学省からの評価も上がるだろう。個別性を軽視し、エビデンスに基づいて何もかもを決めてしまおうとする「エビデンス社会」の問題点は、個々の学生の生き方にも大きな影響を及ぼしうる重要なものなのである。
■政策の良し悪しを判断するときの基準
エビデンスによって全てを動かそうとする社会は、数字には表れない社会の繊細な部分を台無しにしてしまう可能性がある。こうした問題は、たとえば我々が公共政策をどのように評価しているかという点とも関わっている。たとえば、ある政策の良し悪しを判断する際に、我々は何を基準にするだろうか。
一般的に言って、政策評価において基準とされるのは、「効率性」であったり、「有効性」であったりすることが多い(※3)。前者は、いわゆる「コスパ」に該当するもので、投入した資源と、得られた成果の比率を通じて算出される。
投入されたコストが少なく、得られた成果が大きいのであれば、その政策は高く評価される。これに対して後者は、その政策にどれだけ効果があったのかに着目する。今日流行しているEBPMは、この「有効性」に主として着目し、政策の改善を図らんとしているのである。
「効率性」も、「有効性」も、それぞれ政策の基準として有用であるため、政策評価において重宝されてきた。ただ、やや専門的なことを言えば、「効率性」に比べて「有効性」の方は追究が難しく、高度な統計分析や実験など、大掛かりな作業が必要である。「効率性」も、高い専門性を要求するのは変わらないが、「有効性」とは違い、いわゆる「コスパ」のように、表面上の数字を用いれば、体裁だけは整えることができる。
※3 杉谷(2024:84-87)
■「エビデンス社会」への不安
いずれにしても、政策の基準として一般的に用いられるこうした概念は、個々人の経験よりも、広く全体的な傾向をつかむための情報になりがちである。
公共政策が、広く多くの人たちに提供されるものである以上、こういった情報に立脚して進めざるを得ない面があるのだが、政策分野によってはそうした情報だけでは適切な対処ができないケースがあることにも注意が必要だ。
たとえば、障害者福祉政策がそうした事例に当てはまる(※4)。障害者と一口に言っても、その実態は人によって多様である。この場合、十把一絡(じっぱひとからげ)に結果や成果を数値化するようなマネジメントはうまくいかない可能性が高い。
それこそ、抽象的な数字やデータではうまく把握できない実態があり、それらを捨象(しゃしょう)して対応することは、かえって問題を悪化させることにつながる。
※4 北川(2020)
■「それってあなたの感想ですよね?」
ひと頃、人口に膾炙(かいしゃ)したフレーズである、「それってあなたの感想ですよね?」は、横柄なエビデンス主義の典型として、批判的に言及されることも多い。これは、社会のありとあらゆる事象をエビデンスの名の下に一刀両断することへの違和感がもとになっていると見るべきである。上述した村上の議論が広く社会に受け入れられたのも、その傍証と考えられる。
また、書店にいけば数字に踊らされることの愚かさを説いた書籍がたくさんあることが確認でき、こうした違和感を抱いている人が少なくないとわかる。本書の表題である「エビデンスの罠」というフレーズを見て手に取った人も、違和感の正体を掴むことを期待しているかもしれない。
このような言論の状況を見渡した時、「エビデンス社会」の猛威に対して、それを批判する向きもまた、強まっているのがわかる。では、この勢いに任せて我々は、エビデンスを社会の外に押し出していくことができるのだろうか。これを考えるにあたっては、もう片方にある、エビデンス至上主義とも言える考えにも目を転じる必要がある。
■『22世紀の民主主義』が与えた衝撃
優秀な経済学者であり、今やタレントとしても活躍するイェール大学の成田悠輔の著書、『22世紀の民主主義』(SBクリエイティブ)は、2022年に出版され、年間ベストセラーに選出されるほどの話題を呼んだ一冊である(※5)。
成田の立論はそれほど複雑なものではない。提示される「22世紀の民主主義」とはその実、選挙を排したアルゴリズム民主主義に他ならない。成田によれば民主主義とは詰まるところ、民意を重視して、それを反映した政策を作り実施するための政治制度である。しかし、その民意を反映する手続きとしての選挙が、今や機能不全に陥っている。投票率は低下し、若年層の減少によって生じる非均衡はもはや隠しがたいものとなっている。こうした事態を受けて成田は、選挙制度に対してもはや時代遅れであるとの診断を下す。
代わりに提示されるのが、アルゴリズムを用いた「無意識民主主義」である。この構想において民意は、私たちが暮らしの中で残していくデータに基づいて把握される。だが元来、民主主義においては、お互いが自分の利益を抱えつつ、公共的に物事を考えて話し合うことが望ましいとされてきたはずだ。
※5 成田(2022)
■現在の民主主義は理想からはほど遠い
しかし、現在の民主主義は、このような理想に到達しているとはおよそ言い難い。国政選挙の投票率はおよそ半分にとどまっている。
地方選挙に至っては、政治家の成り手すら不足している有様で、多くの人が既存の政治に満足していないのは明らかである。民主主義の根幹をなしている選挙が機能不全に陥り、ネット上では党派性に基づいた罵(ののし)りあいが溢れ、熟議からはかけ離れた現実が広がっている。
機能不全に陥る民主主義、真実を蔑ろにして、自分たちにとって都合のいい物語を構築する政治家ならびに、その支持者によって運用される政治に、見切りをつける人が出てくるのは、それほど不思議ではない。
「それって、あなたの感想ですよね?」という、いかにも思いやりを欠いたフレーズが、良くも悪くも人口に膾炙したのは、このような背景があったからだと解せる。
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岩手県立大学総合政策学部准教授
1990年、大阪府生まれ。専門は公共政策学。京都府立大学公共政策学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。京都文教大学非常勤講師などを経て現職。
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