シリア難民の問題が深刻化している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2015年の難民の数が6000万人で過去最多となった。移民の受け入れを表明しているドイツの他にEU諸国も徐々に支援を広げている。遠い国のことだからと日本も他人事ではいられない。私たちにもなにかできることはないのだろうか。
 そんな難民問題を考えるきっかけにして欲しいのが、『杉原千畝』(大石直紀/小学館)だ。現在公開中の唐沢寿明主演の映画『杉原千畝』の公式ノベライズである。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人約6000人の命を救った外交官・杉原千畝の物語だ。今回の映画化で初めて杉原千畝という人物を知った人も少なくないだろう。しかし、ユダヤの人々からはいまも深い感謝と尊敬を集めている。杉原千畝は、どうして難民を救おうとしたのだろうか。

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■苦学生から外交官へ

 まずは杉原千畝について知ってもらいたい。千畝は、1900年1月1日に岐阜で生まれる。幼くして秀才ぶりを発揮し、尋常小学校卒業時の成績は全甲(オール5)だったという。父親からは医者になるように命じられたが、英語教師を志していた千畝は家出して早稲田大学の英語科に入学する。外務省の留学生制度を利用して、満州にあるハルビン学院でロシア語を学ぶ。ここでも優秀な成績を残した千畝は、外務省書記官として働き始める。

■世界を変えた「命のビザ」

 日本に帰国した千畝は、友人の紹介で妻・幸子と結婚する。子供も生まれ、平穏な日々が続いたが、やがて外務省から新たな辞令が下る。そして1939年8月28日、運命の地となるリトアニアの首都カナウスの領事館へ赴任する。その頃、ポーランドドイツとソ連に分割占領され、ユダヤ人たちはナチスの迫害から逃れるため、入国ビザの不要になったポーランドを経由して、隣国リトアニアへと大移動を開始していた。

 難民たちはビザを求めて各国の大使館、領事館を巡り歩いた。しかしほとんどの国は取り合わなかった。千畝は、領事館の柵の向こうで悄然と立ち尽くす難民の姿に胸を痛めていた。ドイツ軍に捕まったユダヤ人が虐殺を受けるのを知っていたからだ。千畝は、満州で中国人朝鮮人が関東軍に差別や虐待されていた光景を思い出す。日増しに難民たちを助けたいという思いがこみ上がる。しかし外務省の許可がなければビザの発給はできない。千畝は現実と理想の狭間で苦悩する。

 その時、難民たちを助けるように千畝の背中を押したのは妻・幸子だった。家族の理解を得て千畝は決断した。1940年7月29日、千畝は日本政府に無断で難民たちにビザを発給し始める。噂を聞いて日本領事館の前にはビザを求める難民たちの列が100人、200人と続いた。千畝は昼夜を問わず、寝る間も惜しんでビザを書き続けた。やがて手が痺れ、腕に激痛が走るようになった。日本政府からはビザを発給しないようにとの命令も下った。それでも押し寄せる難民たちを見捨てられなかった。千畝のビザは彼らの命そのものだったからだ。

 そんな日々が1ケ月間も続き、ついにソ連軍から強制退去命令が下る。9月5日リトアニアから去る日が来ても、千畝は駅のプラットホームでビザを書き続けた。列車が発車する時刻になると、集まった難民たちが千畝に手を振って別れを惜しんだ。千畝の胸にあったのは、自分がもっと早くに決断していれば、さらに多くの人を救えていたという後悔だった。

■そして世界が杉原千畝を認めた

 帰国後、外務省から呼び出された千畝は自主退職を促される。事実上の懲戒免職だった。その後、不名誉なバッシングにも晒された千畝は貿易業や学校教師、放送局員などの職を転々とする。そんな千畝の名誉回復に動き出したのは、イスラエルの参事官ジェホシュア・ニシュリだった。ニシェリも千畝からビザを受給され、命を救われた一人だった。国際世論の働きかけもあり、1985年1月18日、千畝はユダヤ人への功績があった者に贈られる最も名誉ある称号「諸国民の中の正義の人」(ヤド・バシェム賞)を受賞する。そして翌年の1986年7月31日、86歳で生涯を閉じた。

 『杉原千畝』は、決して戦争小説や反戦映画ではない。この作品に描かれているのは、隣人への思いやり、家族を愛する心、差別や暴力に立ち向かう正義感、そして世界をより良く変えたいという願い。杉原千畝の生き方であり、人としてのあり方だ。それらは私たちにも当たり前にある善意でもある。

 私たちひとりひとりの小さな善意から世界は変わる。杉原千畝を思うと、そんな優しい気持ちがわいてくる。

文=愛咲優詩

『杉原千畝』(大石直紀/小学館)