自分が正しいと信じた仕事に、
自分を捧げて生きていく

ひとはだれもが、やり直しのできない執事だ」

と作者はいう。
淡いノスタルジーに揺さぶられながら、自分の歩みを静かに振り返る。
深い哀惜の念が、押し戻しようのない現実とぶつかり合う……。
ロンドン在住の日系人作家カズオ・イシグロの『日の名残り』は、イギリス最高の文学賞であるブッカー書受賞作だ。
品格ある仕事のありかたを追求してきた主人公の老執事スティーブンス。
彼は、大戦のはざまで誠実に仕えてきた自分の主人であるダーリントン卿が、結局はファシズムに利用されていた苦しい現実と向き合う。
その葛藤を静かに受け入れる姿が、感動的だ。

現代に生きるわたしたちもまた、会社であれ家業であれ、何かに自分を捧げて生きていく。
仕事を抜きにして、人生を送ることはできない。
イシグロが8年前、長編『わたしたちが孤児だったころ』を発表して来日したとき、講演でこう語ったことがある。

ひとはみんな、執事のような存在だと思うのです。自分が信じたもののために仕え、最善を尽くし、懸命に生きていく」

イシグロの作品世界は、処女長編の『遠い山なみの光』や、近年の大作『わたしを離さないで』などに共通して描かれる姿がある。
それは、時代の過酷さに翻弄されながらも必死に生きていく登場人物たちの姿だ。
ひとの一生とは、自分が正しいと信じた「何か」に仕えていく執事のようだ。

「人生はとても短く、振り返って間違いがあったと気づいても、それを正すチャンスはない。ひとは、多くの間違いを犯したと受け入れて生きていくしかないのです」

人生の晩年に抱く万感の思い。『日の名残り』では、その書名の通りに、美しい夕日のような格調高さで、人生の哀しみが描かれる。

歩んだ道には、後悔が満ちていることだろう。
仕事とは、失意、不満、敗北……それらの連続だ。
それが働くということである。
スティーブンスは作品終盤の場面で、こう回想する。

「あのときああずれば人生の方向が変わっていたかもしれない――そう思うこともありましょう。しかし、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう」

場面は、車で出かけた旅の終わりの日でもあった。
夕暮れの桟橋で、スティーブンスは一人たたずんでいた。
闇が降り、灯りがともる。ベンチに座ったままで笑い合い、しゃべり合っている人々を、スティーブンスは見つめ続ける。
夫婦、男女、若者、老人……。そこにいるあらゆる人々の歩く姿を見た。
女中頭だったミス・ケントンに抱いてきた淡い思いも、ついに果たされることなく終わった。
思えば、執事という仕事そのものが、過ぎ去り、消えていくイギリスの伝統的な世界だ。
だが、スティーブンスはいう。

「人生が思い通りに行かないからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮無いことです。私どものような卑小な人間にとりまして、最終的には運命をご主人様の手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。それが冷厳なる現実というものではありませんか」

そう。
きっと、そうだろう。現実は冷厳なものなのだ。