ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回はアニメ映画この世界の片隅に』を取り上げます。

戦時下の日常系
藤田 片渕須直監督『この世界の片隅に』が話題になっています。今年度ナンバーワンアニメであるという声もあがっているほどですが……。
 第二次世界大戦のときの、広島と呉が舞台で、そこでの日常生活を非常に丁寧に描いた作品です。クラウドファンディングで3600万円以上集めたことでも話題のアニメでもあります。それで参加の感覚を支援者は抱くので、応援したくなりましたよね。のん(元、能年玲奈)さんが関わっているので、マスメディアでは宣伝しないように圧力がかけられたと報じられる騒動もあり、SNSを中心に多くの人が「応援」に「参加」して「宣伝」している現象も興味深いです。

飯田 戦時下の呉を舞台にした日常もの(?)ですね。アニメ『ブラックラグーン』(異様なこだわりで作られた傑作)や『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直監督の最新作で、制作はMAPPA。企画は丸山正雄さん。虫プロの時代から日本のアニメーションにずっと携わってこられた方(長くマッドハウスにおられて、その後、MAPPAを立ち上げ)ですが、こと2000年代以降に限っても細田守に『時をかける少女』を撮らせた人であり、渡辺信一郎に『坂道のアポロン』を撮らせた人でもあります。撮るべきひとに撮らせる機会をつくってきたのが丸山さんですが、本作もまさにそういう作品でした。
 あらすじは、戦時中に広島に生まれ育った女の子のすずが、呉の山奥に嫁いで旦那の姉にいびられたり(?)しながら日々を生きていく。ぼーっとした、絵を描くのが好きな女性が被弾して絵が描けなくなったり、すずにいちゃもんつけてくる強気な兄嫁が最愛の子を亡くす。でも生きていく。というもの。
監督自身が言っていますが、原爆の雲を記号としての「きのこ雲」ではなく、映像としてほとんど初めて、記録に則って正確に描いた映画であるとか、リアリティの追求に意欲的な作品であるという側面も強くあります。

藤田 この時代に、第二次世界大戦のときに「日常」を生きていた人々を、細部まできっちり描くのは、資料や取材の手間もかかるし、とても大変だったと思います。そこまでしてまでアニメとして再現する、その意図と狙いについて考えていきたいですね。
 のんさんの声優としての演技は、最初は不安だったけど、途中からしっくりきてよかった。

飯田 能年玲奈の演技はよかったですね。彼女の置かれた状況とすずをオーバーラップさせて観ざるをえないところもあり。

藤田 どんな辛いときでも、ああやって日常を送ることができるのだ……っていう励ましとも受け取れたし、同時に「戦時中でもこうやってのほほんと生きろ」と言われているようでもあり……。

「戦争」イメージのステレオタイプに挑む
飯田 戦時下でもけっこう冗談を言いあっているというのは好感ですね。僕が押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』が好きな理由もそこで。大変なことが起こっても人はけっこう順応しちゃうし、バカやりながら生きているものだ、という感覚はリアルだと思います。
うちの死んだばあさんも、戦時中に憲兵に説教されたあととか、憲兵がこっちに背を向けて歩きだしたらあっかんべーして同級生と笑ったりしてたって言ってました。映画でもすずたちが憲兵に絡まれて笑いそうになるシーンがありましたが。

藤田 確かに。押井監督が描くような、革命や戦争の中でも実は日常があるのだ、っていう内容と似ているような部分もありますね。
 悲惨だと思いがちな戦時中も、ただそれだけではない、ということも描いていましたね。北海道での戦時中も、場所によると思うんですが、いわゆる「悲惨な戦争」イメージとは違う事態だったようで。山口昌男は、疎開した人たちに威張れるし、食料も豊富なので、むしろ楽しかったと回想してます。それらの記録を読むと、エンターテイメントの影響などでぼくらがどれだけステレオタイプな「戦争」観を持っているのか、反省させられます。
 すずという、戦争中でものんびりしているキャラクターは、実に面白いキャラクターでした。自分の意志であまり決定しないで、不平不満を言わない。古き良き日本の妻、日本の嫁。
 もちろん、家父長制のイデオロギーを強化する人物造型だ、という批判も可能だと思うけど、あの時代はそういう価値観が強かったと思うので、それをどう受け取るべきなのかは、議論が起きるでしょうね。
 対比される義姉が、「モガ」で、オシャレが好きで、自分で主体的に意思決定する人だけど、色々と苦労しちゃうように描かれている。どちらかというと、義姉よりも、すずの生き方の方が肯定的に描かれているように見えます。その対比が観客に抱かせてしまう無意識的なイデオロギーの効果には、気をつけないといけないでしょうね。

飯田 どうかな? 監督もすずと兄嫁の「バディもの」だと言っていましたが、どちらかを肯定的に描いているとは、僕は思わなかった。

ポスト宮崎駿としての片渕須直
藤田 ところで、宮崎駿の後継者争いが、細田守監督と新海誠監督で争われているじゃないですか。興業面で言ったらこの二人となるのですが、主題面で言うと、片渕須直って線もあるんじゃないかと思うんですよ。

飯田 僕は「ポスト宮崎駿」という見立てはやめよう派なので……。

藤田 宮崎駿って、航空機を作っていた家の子供で、しかも反戦。彼が直接描くことができなかったのって、「第二次世界大戦で空襲に遭う人々」なんだと思うんですよ。『風立ちぬ』でも奇妙に回避されちゃってた。『ハウル』では、空襲を受けるシーンとするシーンが少しあったけど、ファンタジーを経由していた。
 その、宮崎駿が描くべきだった、第二次世界大戦における空襲を、片淵監督は描ききったな、ってのは、素直に感嘆しました。『魔女の宅急便』を監督するはずだった人なので、実際に接点もありますし。
 空襲を食らう人を描き、その悲惨さも、空襲そのもの「美しさ」も描いた(すずが、絵を描くということを通じて、それは現されていた)。単に悲惨に塗りつぶすでもなく、日常もある中での空襲、原爆。悪いものなんだけど、魅力的でもある。兵器が好きだけど反戦、という、宮崎駿的なジレンマ(多分、戦後日本の大衆エンターテイメントに脈々と流れているジレンマ)に、直球で勝負しかけて、ちゃんと描ききった作品であると、系譜に位置づけられると思います。

飯田 ただ、片渕さんはよくもわるくもケレンがないですよ(いや、『ブラックラグーン』のときは決してそうじゃなかったんだけども……『マイマイ新子』や本作では)。そこは宮崎駿とは全然違うでしょう。宮崎さんはやっぱりキャラクターでぐいぐい引っ張っていくから。
 細田さんとはまた違った切り口での、「東洋のディズニー」という志を持っていた東映動画的な日本のアニメーションの、最良の部分の後継者ではあるとは思います。片渕さんが監督した『名犬ラッシー』はdアニメストアで観られますので、ぜひ観ましょう。

今現在にも通じる普遍的な内容
飯田 「主題面」という意味で言えば、主人公はいったい流されているのか選んでいるのかという映画だなと思いました。さまざまな制約のあるなかでどう生きられるか、そして「絵を描くこと」であるとか「自分の子ども」というアイデンティティを奪われたあとでどう生きられるかを問うていた。それは今現在にも通じる普遍的な問題です。

藤田 日常の描写を丁寧に積み重ねたから、喪失の描写も、その後に続く日常も説得力があった。そして、戦争というのは日常の中にじわじわ侵入してくるのだな、という感じも非常にうまく伝わってきた。
 ……この描写にこだわる作品を、わざわざクラウドファンディングをしてまで、現在につくろうってのは、どういうことなんでしょうね?

飯田 というか逆で、クラウドファンディングじゃないとお金を集めにくいタイプの作品だとは思います。
というのも、すずは、死にたいとも基本的には思ってないし、かといってどうしても生きたいとも思ってない。動機らしい動機があるのかないのかがわからないキャラクター。普通に考えると、こういう人物造形は少なくともエンターテインメント映画向きとは言いにくい。ハリウッド脚本術では「主人公には原始的で強烈な動機をセットしろ」と口を酸っぱくして言われますが、そういうものではない。つまりわかりやすく「それは客が入りますよね」とジャッジされる類いの作品ではない。
 もちろん、できあがったこの作品の内容を批判する人はそんなにはいないだろうけれども、「評価」はともかく「ビジネス」として成立するかは読めないタイプの企画であることは間違いない。だからクラウドファンディングで出資金を集めないといけなかった。それでも作ることを決めたこと自体が英断だし、クラウドファンディングというものが世の中にあることでこうしてかたちになって、よかった。
焼け野原になった広島や呉の風景から震災後文学として観ることもできるし、6人には1人が貧困であるこの日本で起こっていることだという見方もできる。客観的に見たときのすずたちの状況の重さと、すずの健気さ、ある種の鈍感力のもつ強さを見て、救われる気持ちになるひとは少なくないと思います。そういう意味で2010年代に響くものだなと僕は感じました。あとは、偶然だけれどもカープリーグ優勝して盛り上がった年に公開されたからこそ、よけいに広島の歴史、日本の戦後を想像させるものになったなあ、と。

後編記事につづく