急場をしのいだ「西部警察」は依然、コンスタントに20%台の視聴率をキープしている。テレビ朝日から「PARTII」を打診されたコマサに天啓が閃く。

 裕次郎に無理はさせられない。ならば地方都市を舞台に大門軍団が活躍するという“ご当地めぐり”のアクションテレビ映画だ。

 コマサが石原プロで幹部たちにまくしたてる。

「スーパーマシンをガンガン走らせ、大門軍団が所轄を飛び出して日本全国を縦断する。どうだ、ワクワクするだろう。それだけじゃない。地元企業とタイアップして広告費を取る。これを全国展開するんだ」

 こうして「日本全国縦断ロケーション」がスタートする。派手なカーアクションや遊覧船爆破炎上など常に話題を集め、高視聴率を叩き出した。

 石原プロは急成長を遂げる。コマサの強引とも思えるビジネス手法は「銭ゲバ」と揶揄されたが、

「銭ゲバで結構だ」

 と意に介さなかった。

「企業が赤字を出すのは犯罪である」というのがコマサの信念であり、これは倒産危機の辛酸を舐めた男の本音でもあったのだろう。

 だが、渡は少し違った。コマサの言うことはわかる。だが「なぜ稼ぐのか」「稼いでどうするのか」「そもそも石原プロは何のために存在しているのか」という思いが、常に頭の片隅にあった。

 答えはハッキリしている。裕次郎が繰り返し言うように「石原プロとして映画を撮る」──すべてはこの一点に集約される。ならば、なぜコマサは映画制作のことを口にしないのか。資金なら、すでに潤沢にあるではないか。

「コマサ、どうして映画の話をしないんだ」

 裕次郎の前で、渡が詰問した。

 コマサが応じる。

「必ず撮る。そのためにはしっかり稼いで、何があろうとビクともしない会社にするのが先決じゃないのか?」

「カネはあるじゃないか」

「もっといる」

「いくらだ。だから、いくら稼げばいいんだ!」

「もういい、二人とも」

 裕次郎が中に入った。

 後にコマサは「映画を撮らないんじゃない、撮るのが怖かった」と心情を吐露する。満を持して映画制作に乗り出し、万一、コケるようなことがあれば「石原裕次郎」という名前に疵がつく。番頭として半生を懸けてきたコマサにしてみれば、映画制作は足がすくむほどの恐怖であった。

 一方の渡哲也は、映画制作という裕次郎の夢を叶えたいという一心でいる。二人は、石原プロを思うスタンスは違っていても、裕次郎という同じ「太陽」を仰ぎ見ていることに変わりなかった。

西部警察」をスタートさせて5年。そろそろ潮時かもしれない。裕次郎がいつもの笑みを浮かべてコマサに言った。

「いつまでも続けていたら映画のことを考える時間が持てないよな。どうだい、このへんでちょっと区切りをつけないか」

「わかりました」

 コマサが頭を下げた。自分たちは船のエンジンのようなもので、スクリューを回すのが仕事だ、とコマサは思っている。船をどこに向けるかは、船長の裕次郎が決めることだった。

 テレビ朝日の三浦専務は寝耳に水だった。大ヒットしている「西部警察」をなぜ辞めるのか。リアリストの三浦にはとうてい理解の及ばないことだった。訝る三浦に、コマサがキッパリと言う。

「決めたのは石原でして、それを忠実に実行するのが番頭たる私の役目です」

 こうして裕次郎は映画制作に着手する。旧知の脚本家・倉本聰を滞在先のハワイに招き、打ち合わせを重ねた。熱に憑かれたように構想を口にする裕次郎を、渡とコマサは胸が張り裂けるような思いで見ていた。

西部警察」に幕を下ろしたこの年、定期検診で裕次郎に肝臓ガンが発見されていた。この事実を知るのは妻のまき子、兄の慎太郎、そして渡とコマサの四人だけで、裕次郎には伏せていたのだった。

 昭和62年7月17日午後4時26分、裕次郎は慶應病院で息を引き取る。あたかも太陽が水平線にゆっくりと沈んでいくかのような安らかな最期であったという。

 カリスマ性を発揮して、リーダーを務めた石原裕次郎石原裕次郎に生涯を賭して忠誠を貫いた渡哲也。そして自らを「銭ゲバ、コマサ」と称し、経営に長けた小林正彦──。これは、石原プロを舞台にした男たちの壮絶な物語である。

作家・向谷匡史

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