裁判員制度が導入され、誰もが「死刑」判決の判断に直面せざるを得ない状況にある中で、私達は「死刑」についてどのように考えていけばいいのか。賛成派、反対派、中間意見の専門家や有識者の方々をお招きして「「死刑」を○△×で考える生放送 【ニコニコ×TOKYO1351】』が放送された。

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 司会はローリングストーン日本版シニアライターラジオDJのジョー横溝さん。出演者は映画監督・作家の森達也さん。慶應義塾大学名誉教授・弁護士の小林節さん。弁護士の安田好弘さん。裁判員経験者の田口真義さん。そして番組後半から参戦した弁護士の森炎さん。

 「人間の尊厳」を守る為にも死刑制度があったほうがいいと語る森炎さん。また、森炎さんとは違う論点から死刑制度を支持する小林さん。一方で死刑廃止を考える森さんは、死刑に関する情報がほとんど公開されていないことの問題を指摘。裁判員経験者の田口さんも、情報なしに死刑判決に関わる怖さを語った。安田さんは死刑確定者の厳しい現状などを語り、自分達を含めた普通の人が正常な判断を失うことで犯罪に繋がることについて語った。

冤罪は、死刑廃止論の根拠にならない

横溝:
 世論調査では、8割の人が「死刑を残した方がいい」と答えています。森炎さんも同じ意見だそうですが、それは世論に同調するものではなさそうですね。森炎さんの「死刑を残した方がいい」という論拠をお話し下さい。

森炎:
 死刑に関する考え方を、言葉で明晰に表現するのはとても難しいです。私自身の考え方が整理されているという訳でもありません。なので、あえて割り切ってお話しさせて頂きます。

 死刑を肯定する理由は3つあります。一つ目、死刑とは人間の「尊厳」というものを正面から問うものなのです。死刑廃止論は、むしろそこから遠ざかっていると感じます。死刑を通して問われるのは、犯罪被害者と被告人の尊厳です。

 結果的にどうしても「死刑しかない」ということになった場合、そのことを被告人に向かって正面から言えるとすれば、それはその人を尊厳を持って扱うことになると思います。

 二つ目、死刑制度は、死を通じて人間が社会的存在であることを確認することができるのです。我々のこの世界で、他人の死が自分の死に重なるということは、死刑をおいて他にはありません。人を殺すことは、自分を殺すこと。カントがそういうことを言っていますが、その通りの状況が生まれます。

 この点について死刑廃止論は、他人の死と自分の死を切断するものです。死刑廃止の世界では、他人を殺しても自分は死刑になることは絶対ない訳ですから、他人の死が自分の死に重なるということがなくなる訳です。

 三つ目。冤罪は、死刑廃止論の決定的な根拠になりません。以上です。

森:
 今のお話でカントが出ましたが、それについては観念的・哲学的に納得できます。その上で言うと、僕は死刑確定者13人中6人に会っています。ずっと面会して文通も続けていました。光市母子殺害事件の彼にも会いました。その上で形而上的な部分と形而下的な部分、その2つを組み合わせた上での話をしたいと思います。

田口:
 森炎さんにお伺いします。死刑がある社会とは、言い換えると「自分が死刑になってもいい」という社会契約的なものを是認してると考えていいのでしょうか。

森炎:
 その通りです。自分が死刑になってもいい、というのがなければ、そもそも成り立たないと思います。

安田:
 僕は死と生というものを対極において物事を見てきました。他人を殺して、その上でなおかつ生き続けることで、どうやってこの後生きていくのか真剣に考える。その中で分かることがあると思います。

 誰かを殺す、殺した人に死が与えられる、つまり死と死が対面してしまうと、人の命を人の命でもって交換するということが肯定されると思うんです。命を賭けて何かをする、命を捨てて何かをする、あるいは他人の死を受け止めて自分も死んでいく。そういったことを推し進める結果になる気がしてならないんです。

森炎:
 私は今、安田先生が言われたことと、全く同じことを思っています。しかしそれは、同じ物事の表裏という意味で同じということです。被告人が命を賭けることが生命の尊厳につながるのか。それとも生き続けることがそうなのか。そういうことが問えない社会であることに一番抵抗を感じます。

 今の社会は「生きる」ということが前提になっている社会です。安田先生が仰ったことは社会思想として考えるべきことであり、それについて反対するつもりはありません。でも「思想」なんです。その前に命を賭けることが生命の尊厳に結びつくのか、生きることで生命の尊厳に結びつくのか。それを問わないといけない。死刑廃止論とは、問いかけるという可能性をシャットアウトするものなのです。

 もっと言うと、死刑肯定か否定かということと、死刑を存続・廃止ということは若干違います。死刑廃止論は制度を無くすことですので、今ある色んな考え方を戦わせるということも無くなるんです。そういう社会になるということです。

森:
 死刑廃止論が、そういった「どういう社会にしたいのか」というイマジネーションもカットオフしてしまう、そのリスクについてはよくわかります。でも同時に「自分も処刑されるかもしれない」というリスクを踏まえた上での死刑存置論ですよね。今この日本社会は、そのレベルに達してるとお思いですか?

森炎:
 思いません。

森:
 そうですよね。どちらを取るかではないですけど、現状においてそのレベルに達していない現実と、あるいは葛藤することによって違う選択も生まれるという可能性もあるのではないでしょうか? もうちょっと簡単に言うと、僕は森炎さんの仰ることを「条件付き存置論」だと解釈したわけです。

 つまり尊厳というものについての意識を皆が持つべきであると。犯罪者、被害者、我々一人一人がちゃんと意識を持つべきである。その上での死刑存置だと解釈したわけです。

森炎:
 ちょっと今のお話からずれるかもしれないんですが。死刑冤罪というものがあり、なおかつ自分がその当事者になるかもしれない。それを踏まえて死刑なんです。国家権力の行使です。だから構えを決めなきゃいけない。死刑冤罪はあり得るわけで、むしろあるんです。その上での死刑存置論でないといけないと思うんです。

 私の死刑存置論は非常に少数の意見になると思います。それは社会思想として受け入れ難いと思いますし、それを人に押し付けるつもりもありません。しかし、そういう死刑存置論もあるはずだと言いたいのです。

田口:
 死刑制度の必要性についてはわかります。でも、執行について情報が閉鎖的という問題がありますが、それについてご指摘はありませんか?

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