147回芥川・直木賞選考会はいよいよ本日夕刻、候補作を全部読むシリーズ、今回は芥川賞に挑戦しました。直木賞編と合わせてお読みください。

戌井昭人「ひっ」(「新潮」2012年6月号)
「ひっさん」というあだなだった主人公の伯父についての小説だから「ひっ」なのだ。ひっさんは戦後に波瀾万丈の生活を送った挙句にほぼ独学で音楽の勉強をし、そこそこ売れた作曲家になった。突如引退を宣言し、マグロの赤身が好きだからという理由で神奈川県三浦半島に移り住むと、そこで農耕生活を送った。読みながらかっこいい伯父さんだな、と思っていたのだけど、モデルは深沢七郎だろう(豊崎由美氏指摘で気がついた)。戌井はあの作家の大ファンで、ちくま文庫の『深沢七郎コレクション』の編集も担当している。
主人公「おれ」の自堕落な青春を描いた小説でもある。子供のころからこの型破りな伯父に影響を受け続けた「おれ」はひっさんの「テキトーに生きろ」という人生訓を真に受けすぎ、「お前のは、テキトーが死んでる」と叱られるほどに無気力な人間になってしまうのである。そうした駄目な様子が、主人公の男根をモチーフにして書かれているところが本書の笑いどころである。日本を飛び出してアジア放浪の旅に出た主人公は、怪しげな薬をやったため、右手の小指がピンと立ったまま動かなくなってしまう。この勃起したままの小指は、彼が20歳のころにムズムズが止まらなかった股間の衝動が転移したものだろう(射精をすると小指は元に戻るのである)。「おれ」の人生の羅針盤は股間である。
ひっさんは死んでしまい、「おれ」が遺品を整理しに来るところから小説は始まる。結局「おれ」は、ひっさんの人生の教えを理解できずに終わるのだ(ひっさんの書いた特殊なミミズ楽譜は、宝の持ち腐れとなる)。そういうナンセンスさは好みである。最後で「機械仕掛けの神」を降臨させて小説を終結させたような印象があるが、非常に好感が持てる作品だ。

鹿島田真希「冥土めぐり」(「文藝」2012年春号)
ある日、区の保養所の宿泊が平日に限って5千円になる、という告知のポスターを見た奈津子は「非情な悦楽と耐えがたい苦痛の矛盾に引き裂かれて恍惚」とする。その保養所は、彼女が幼い時に両親と弟の4人で出かけたことがある、高級リゾートホテルの成れの果てだったのだ。奈津子の暮らしは楽ではない。夫の太一が脳の病気のために障害者となり、彼女がパートタイムの仕事で夫婦の暮らしを支えているからだ。だが奈津子は10万円の預金を下ろし、太一と二人で旅行に出かけることを決意する。
奈津子という主人公の内面は謎めいている。彼女の父は脳の病気のためにすでにこの世にはないが、母親と弟はまだ健在である。この2人が、奈津子にとっての足枷である。母親は、奈津子がよい金づるを見つけて結婚して自分の貴族趣味を満足させてくれることだけを願っていた。単なる公務員であった太一は、彼女にとって侮蔑の対象でしかないのだ。弟はそんな母親からも金をかすめ取ろうとする性格破綻者であり、わずかな姉のパート賃金を奪い取ってキャバクラで豪遊しようとする。独身時代の奈津子は、この2人の家族という重荷を背負い、自分の人生に絶望していた。そんなころに太一と出会い、半ば発作的に結婚を決めてしまったのだ。太一はその後病を得たために、少なくとも収入面で奈津子を支えることはできなくなった。
小説を読み始めたときには、なぜ奈津子は太一を宝物のように扱い、彼を見守ることを自らの救いと感じているのかが理解しがたいはずだ。虚栄の塊である肉親が彼女にしたことと、太一がしなかったこと、しないこととの差がわかってくると、その答えが見えてくる。世の中に自らの意志を超えた恩寵というものがあるとするならば、奈津子にとっては太一こそがそうなのである。そうした存在に出会えた者の心情は平穏さに満ちている。その揺るぎなさを描いた小説なのである。

鈴木善徳「河童日誌」(「文学界」2012年5月号)
婦人科医の「私」の経営する医院に、ある日金子という男が訪ねてくる。腹部の映像を見るためだ。男の妻は河童の憑き物筋の家系で、離婚した際に金子の腹に河童を孕ませていったのだという。訝りつつも「私」は金子の腹部に超音波診断機を当ててやる。だが、映し出された画像は驚くべきものだった。金子の腹部の皮膚と直腸の間に楕円形の球体があり、その中に体長30センチほどの河童が棲んでいたのだ。河童はなぜか書類と印鑑を持っており、しきりに印を押そうとしていた。こうして「私」の業務日誌には、河童の観察結果が記され始める。
幻想譚の登場人物として、この河童が非常に魅力的だ。好奇心が強く、河童は気になったものをすぐに盗ってしまう。しかし意地悪をしているわけではないので、金子が呼びかけると臍の穴から盗ったものを返してくるのである。また、河童は宿主の倫理にも敏感で、不実なことをすると罰を与えようとしてくる。勝手に腹に侵入するなど迷惑極まりないことであるはずなのに、金子の河童に対する接し方はまるで血を分けた我が子へのもののようである。こうした親近感は、やがて主人公にも伝染してくる。
一患者の問題にすぎなかったはずの河童が、やがて「私」自身の切実な関心事になっていくあたりの展開は定石通りである。実は「私」には過去に産科の医師として挫折を味わったことがあった。そのため、分娩を医院で扱えなくなったのである。また、妻や子供にも関心を抱けなくなるなど、自身の生活も壊れてしまった。そうした行き止まりの人生に、河童との出会いが変化をもたらすのである。そうした明るい要素があることも付け加えておきたい。

舞城王太郎「短篇五芒星」(「群像」2012年3月号)
5篇から成るオムニバスの短篇集だ。それぞれの作品が奇矯な題材を扱っており、内容は濃厚である。これであれば在庫整理のように五篇をいっぺんに書くのではなく、それぞれに独立した長篇にしても大丈夫だったのではないだろうか。
5篇の中での最良の作品は、「あうだうだう」である。この世のどこかに正義のための孤独な戦いをしている人間がいる。そういう存在を描いた作品だ(五篇の一つである「美しい馬の地」にも主題は通じている)。語り手の「川上」は、はじめその戦いのことをまったく理解できない。戦士である中村榛枝は、川上の高校のクラスメイトだ。彼女は月に一度か二度、動物を殺して内臓を抜き、遺骸を頭から被って悪い箱と闘っているというのである。その悪い箱についての詳細は内緒にされているが「あうだうだう」と呼ばれているーーという冒頭で明かされる設定だけでもすでに無茶苦茶おもしろそうだ。
「川上」はまだしっかりとした内面のない年齢の少女で、年上の性質の悪い男に引っかかって金づるにされたりもする。その彼女が「あうだうだう」に出会ってしまうことから、中村榛枝の孤独な戦いについて知ることになるのである。中村は、悪は人の感情の一つだから完全に根絶する必要はないが、増長しすぎることがないようにときどき叩かないといけないという。そうした世界観にも魅力があり、やはりオムニバスの一篇という長さでは喰い足りない。小説はアンチクライマックス風にしゅっとしぼんで終わる。それによって途方もない広がりが感じさせられる仕掛けなのだが、この主題は正攻法で書き抜いてもらいたかったと思うのである。他の4篇の中の次点は「バーベル・ザ・バーバリアン」。「俺はバーベル。俺を持ち上げるのはヘルシーうどん」という出だしが馬鹿馬鹿しすぎて素敵だ。

山下澄人「ギッちょん」(「文学界」2012年6月号)
自らを「わたし」と呼ぶ主人公は、その朝に母が妹を連れて家を出たと言う。「わたし」は連れていってもらえず、父とともに取り残された。わたしはその父と2人で釣りをしているというが、父はアパートで酒に酔って寝ているはずだとも言う。両者は矛盾しており、この記述には当たり前ではないことがあると読者は気づき始める。冒頭には「07」という文字が記されている。続く章では「わたし」は学生服の男と並んで歩いている。ここでも記述が普通ではない。「わたし」はその男に「オオワダ」と呼びかけるのだが、そう呼びかけた自分自身を後方から眺めたような書き方をしているのだ。章の頭には「15」という数字が記されている。
どうやらそれぞれの数字は章における「わたし」の年齢を示しているらしい。次の章はまた「07」、そしてその次は「27.19.07.19.27.07」と続く。複数の数字がある章は、その中で予告なしに主人公の年齢が変わることを示しているようだ。たとえば同じ池を眺めているようでも、改行したときには年齢が変わっている。その契機になるものは記憶である。多いものはまず場所の記憶。ある場所で行ったことが過去の記憶を呼び寄せると、そこで主人公の年齢が変化する(なので一般的な小説とは違い、時間の経過ではなくて場所の推移が小説の導線の役割を果たしている)。題名にある「ギッちょん」というのは「わたし」の親友の名前だが、彼のことが想起されると、時代も一気に飛躍する。なぜ「ギッちょん」がそのように特権的な位置にいるのかということは、こうした特殊な語りの形式が用いられる理由とともに小説の最後部で明らかになるのである。
パズルのように読み解くことができ、語られずに飛ばされる隙間の部分に想像力を掻きたてられる。ナンセンスな笑いもあり、「わたし」が付き合うことになるカシワダの正体には驚愕させられた。小説の中には1人の人生が凝縮されてあり、短いが満足感は非常に高い。

今回の芥川賞、私は本命を「冥土めぐり」対抗を「ギッちょん」にうつ。ちなみに好みの作品は「ひっ」だ。直木賞は希望をこめて本命を『鍵のない夢を見る』とするが(好きな作品も同じ)、ひさしぶりに受賞作なしという結果もありかと考えている。さて、結果はどうなることか。
(杉江松恋)

大森望×豊崎由美両氏の「ラジカントロプス2.0文学賞メッタ斬り!スペシャル147芥川賞直木賞予想編」も併せてお聴きください。

「文藝 2012年 2月号」鹿島田真希「冥土めぐり」収録