テクノロジーの急速な進歩によって、私たちのプライバシーはどうなるのだろうか? そんな未来を占うのが「IT先進国」となった中国の現状だ。
「革命」の中心はアリババ(阿里巴巴)の「アリペイ(支付宝)」とテンセント(騰訊)の「ウィーチャットペイ(微信支付)」で、いずれもスマホを使った決済システムだ。中国経済では国家的企業による寡占化が進んでおり、決済市場もこの2社だけで90%以上のシェアを占めている。

中国ではスマホ決済が当たり前

 アリババの電子決済サービス「アリペイ」の利用者は5億人を超え、1日あたりの決済件数は2億件前後にのぼる。「5億人の決済牛耳る」(日経新聞12月5日朝刊)によれば、杭州の名刹では賽銭箱にQRコードが貼ってあり、スマホをそれにかざすだけで好きな額を収められるという。最近では60代、70代でもスマホで払うひとがかなりいるそうだ。

 新興国無線LANネットワークが爆発的に広がったのは有線の通信ネットワークが貧弱だったからだ。先進国では有線ネットワークに巨額の投資を行なってきたため、通信大手はそれを無にしてしまう無線ネットワークの普及に及び腰だった。これと同じことが中国の金融インフラでも起きている。「電子決済社会化」が急速に進んだのは、中国の決済インフラ先進国に比べて大きく遅れていたからだ。

 日本でスマホ決済が普及しないのは、先進国のなかでは突出して現金取引が好まれているということもあるが、クレジットカードでポイントを貯めたほうがずっと得だからでもある。クレジットカードの普及していない中国では、スマホがたちまち決済手段の主流に躍り出た。

 さらに、100元札のニセ札が大量に出回っているという事情が後押しした。ニセ札をつかまされると丸損だが、スマホ決済なら自分の銀行口座から引き落とされるのでその心配がないのだ。

 もうひとつ見逃せないのが、利用手数料の安さだ。クレジットカードを導入する店は取引高の3~5%の決済手数料をカード会社に支払わなければならないが、アリペイではわずか0.6%だ。そのうえ裏技があって、多くは個人商店のかたちをとり、「個人間の送金は無料」というサービスを利用して決済手数料をまったく払っていないのだという。

 その背景には、アリペイがテンセントウィーチャットペイとの激しい競争にさらされているという事情がある。スマホをQRコードにかざす仕組みは同じなのだから、多少でも条件が悪ければ利用者はさっさと乗り換えてしまうだろう。

 そのためアリババは、アリペイでの利益を現時点では重視していないという。アリペイは生鮮食品宅配の「盒馬(フーマー)鮮生」、シェア自転車の「ofo」、出前アプリ「餓了麼(ウーラマ)/『おなか空いた?』の意味)」、配車アプリ「滴滴出行」などグループの事業の支払いに使えるようになっており、決済インフラを安価に提供することでグループ全体の収益を最大化しようとしているのだ。

 アリペイの大きな特徴は、「芝麻信用」という信用情報管理システムを導入したことだ。「芝麻」は中国語で「ゴマ(胡麻)」のことで、「アリババと40人の盗賊」の「開けゴマ」の呪文にひっかけて、「ゴマで(将来の可能性が)開かれる」意味だという。

「芝麻信用」はアリペイの決済データとリンクし、月1回更新される。利用者の信用枠は950点満点で評価され、勤務先や学歴などの個人情報を追加入力するとスコアが増す。評価が高ければ融資金利や与信枠が優遇されるほか、ホテルやシェア自転車を利用する際のデポジット(保証金)が無料になることもある。上海の消費者金融会社は、「芝麻信用」のスコアだけで最大5000元(約8万5000円)を無担保で融資するサービスを始めた。

「芝麻信用」の仕組みは、クレジットカードの信用情報と同じで目新しいものではない。そのちがいは、欧米や日本など先進国では信用情報の利用に厳しい規制が課せられているが、中国では決済市場の寡占化で消費者の信用情報が2つの大手企業に集中し、アリババテンセントはほとんど規制のない状態でそれを利用することができることにある。

国家が個人情報をすべて管理する国

国家が個人情報をすべて管理する国

 中国で起きているのは、民間企業への個人情報や信用情報の集積だけではない。そうした情報が国家(中国共産党)に流出する危険をはらんでいる。

 日経新聞11月28日朝刊では、「国民監視に懸念も」として、中央銀行である中国人民銀行が2018年中をめどに、すべての電子決済を人民銀系の決済システム経由で行なうよう通知したと報じている。アリペイだけでなくテンセントウィーチャットペイも対象で、これによってスマホでの電子決済取引を国家が完全に把握することが可能になる。

 11月には、河南省の男性がアリペイの残高10万元(約17万円)を凍結された。男性が民事上の支払いを怠ったとして、地元の裁判所が資産凍結をアリペイ側に申請したのだという。同様の事例は今年後半に入って急増しており、アリペイの金融情報が当然にように国家に利用されている。

 中国のIT企業が利用者のプライバシー情報を公安当局などに提供するのは「共産党独裁」の下で事業を行なわなければならないからだが、それと同時に中国当局の規制が自らの事業利益の源泉だからだ。これは以前書いたが、アリババテンセントが中国で爆発的に顧客を増やすことができたのは、AmazonやTwitter、LINEなど競合するグローバル企業の進出を「国策」として食い止めたからだ。中国の大手IT企業と中国共産党は「運命共同体」なのだ。

[参考記事]
●GoogleもTwitterも禁止。中国ネットサービスの「巨大なガラパゴス」化はさらに進む

スマホとカメラで常に個人を特定できる中国という監視社会

 日経新聞はそれ以外でも、中国のプライバシー問題の記事を繰り返し報じている。12月1日朝刊の「映画館、客に身分証要求」によれば、河南省鄭州市では10月の中国共産党大会の治安維持強化の一環として、映画館の観客が入場時に身分証の提示を求められている。上海の弁護士は、これを全国に先駆けた試行措置ではないかと疑っているという。

 中国では「グレートファイアウォール(ネットの長城)」と呼ばれるネット監視システム「金盾工程」によってGoogle、Facebook、Twitterなどのサービスを使うことができない。そのため中国国民の大半は、中国版LINEである「微信(ウィーチャット)」などを利用しているが、そこでのやりとりは共産党の指示によって企業(テンセント)が自主検閲している。

 日経新聞12月12日朝刊「中国、強まるネット言論統制」によれば、当局が「敏感詞」と呼ぶ検閲対象語は2010年に約1000だったが、15年に5000を超え、最近では1万以上に増えた。AI(人工知能)を使って、「習近平」の「習」と「近平」の間にスペースを入れたり、発音が同じでちがう漢字を使っても削除されるし、敏感詞を紙に書いて撮影した写真をアップしても削除される。隠語も検閲対象で、習近平と容貌が似ている「くまのプーさん」が敏感詞になったため、政治とまったく関係のない話題まで発信できなくなったとして世界で話題になった。

 中国のネット企業は統制強化にともない、投稿された文章や写真をチェックする「審査員」を増やしており、その総数は500万人に達するともいわれる。月給は6000元(約10万円)で、1日12時間パソコン画面を凝視し、検閲漏れは処分される。審査員は大卒の20代が中心だが、1年を超えて勤務する割合は3割以下だという。

 日経新聞12月8日朝刊「中国ネット遮断 日本企業にも」では、中国国内から海外のサーバーにアクセスするVPN(仮想私設網)が頻繁に遮断され、日本企業の業務に支障がでていることが報じられている。

 VPNによって海外とのあいだに仮想の専用線を引けば、グレートファイアウォールを回避して日本の本社のイントラネットにアクセスすることができる。中国政府は今年1月にVPN規制を強化する方針を発表したが、外資系企業の活動に配慮して日常業務に使うVPNは取り締まり対象外とされるはずだった。ところが9月以降、中国当局がVPNを次々と使用不能にし、日系企業で頻発する通信トラブルの原因となっている。9月末には、Googleの検索につづき日本のYahoo!の検索も遮断されている。――ちなみに私は10月はじめに深センと広西チワン自治区の南寧を訪れたが、いずれもVPN経由で海外のサーバーに問題なく接続できた。

 中国電信(チャイナテレコム)などが提供する国際専用線を利用すればこうしたトラブルはなくなるが、問題はVPNとちがって、「その気になれば通信の傍受や抜き取りは可能」(日本の大手通信会社幹部)なことだ。「VPNの遮断は日本企業を専用線に誘導し、情報を盗み取るためではないか」との“陰謀論”が囁かれる所以だ。

 日経新聞12月13日朝刊「監視社会が生む調整」では、中国の監視カメラの現状を解説している。それによれば中国公安当局は顔写真と身分証、電話番号などをデータベース化した「天網工程」と呼ばれる監視システムを構築しており、中国で稼働する監視カメラ1億7600万台以上のうち少なくとも2000万台は天網とつながっている。広東省広州市のホテルでは、チェックインの際にパスポートの提示と同時に顔写真の撮影を求められるという。

 中国の監視カメラは2020年には6億2600万台まで増える見通しで、スマホの位置情報や決済情報とも連動して膨大な個人情報を収集する。

 日経新聞の記者は、広東省で通信機器の民間企業を経営する40代の中国人男性から、待ち合わせ前に3時間、スマートフォンの電源を切るよう指示される。GPSがオフでも電源が入っていれば、街中に張り巡らせたアンテナとカメラで個人を特定することができるかだという。

 この男性は記者に、こう助言した。「待ち合わせ場所で落ち合ったら1カ所にとどまらず、歩きながら会話する。今はこれが一番安全だ」

現代的な監視社会の本質は情報処理にある

現代的な監視社会の本質は情報処理にある

 日本もいまでは至る所に監視カメラが設置されている。テロ対策特別措置法や特定秘密保護法の議論では、国民のプライバシーが危険にさらされるとの批判の声があがった。

 こうしたときに必ず出てくるのが、「やましいことがなにもないなら、そんなことを気にする必要はない」との反論だ。監視カメラの映像は事件が起きたときにしか再生されないのだから、一般人の生活にはなんの影響もない。テロ対策特別措置法が取り締まるのはテロリストだし、特定秘密保護法は防衛・外交の機密漏洩を防ぐためのものだからほとんどの国民には無関係だ――。

 この論理はものすごく強力で、おまけにある程度まで正しい。監視カメラの映像が犯人逮捕に結びついた事例は実際にあるし、テロ対策や機密を保護する法律も必要にちがいない。しかし、それにともなうプライバシー侵害を無制限に認めてしまっていいのだろうか。

 じつはこの議論は、9.11同時多発テロ以降、アメリカではげしくたたかわされている。「やましいことは何もない」論とプライバシー擁護とが対立しているのだ。

 ジョージタウン大学法科大学院教授のダニエル・J・ソロブは『プライバシーなんていらない!?』で、「安全のためならプライバシーが犠牲になってもやむを得ない」という主張を批判的に検討している。この本の原題は、「Nothing to hide(やましいことは何もない)」だ。

 ソロブはこの本で、「やましいことは何もない論」に代表される保守派の議論を否定し、「プライバシーさえ守られれば安全などどうでもいい」と主張しているわけではない。

「安全」と「プライバシー」は、どちらかを取ればもう一方を失うようなトレード・オフの関係ではない。話をこじらせるのは、プライバシー擁護派の一部が極端な主張(監視カメラをすべて撤廃しろ)をし、保守派がそれを面白おかしく取り上げて「あんな奴らのいうとおりにしたら安全な暮らしが失われてしまう」と二者択一を迫ることだ。これではそもそも議論が成立しない。

 ソロブは、「プライバシーのない社会」というのは、ジョージ・オーウェルが『1984』で描いたようなビッグ・ブラザー(超越者)による徹底的な市民への監視・洗脳のことではないという。それは、フランツ・カフカが『審判』で描いた不可解で理不尽な迷宮世界に近い。

 銀行支配人ヨーゼフ・Kは、30歳の誕生日の朝に見知らぬ2人の男の訪問を受け、自分が逮捕されていることと監視下にあることを告げられるが、なぜ捕まったのかは教えてもらえない。Kは必死になって自分の罪がなにかを解明しようとするが、秘密裁判所が彼に関する事件記録を保有しており、それをもとに捜査が行なわれていることまでしか知ることができない。審判は進まず、弁護士は役に立たず、なにひとつわからないまま31歳の誕生日の前夜、2人の処刑人の訪問を受け、郊外の石切り場で心臓を一突きされて殺されてしまう……。

『審判』には、ビッグ・ブラザーのようなはっきりとした権力の主体は出てこない。官僚制(裁判所)はKに関する重大な判断を行なうために個人情報を用いるが、その情報がどのように用いられたかにKが関与することを拒絶する。

 ここからソロブは、現代的な監視社会の本質は、監視や情報収集というよりも「データの貯蔵・使用・分析」といった情報処理にあると指摘する。「やましいことは何もない論」は、「データベースによって引き起こされる問題を監視の問題として把握しようとすることに難点がある」のだ。

小説『審判』の恐怖の監視社会が目の前に

「やましいことは何もない論」は、プライバシーが悪いことを隠すものだという潜在的な前提で成り立っている。テロリスト犯罪者は自分の正体を隠すためにプライバシーを隠れ蓑にしようとする、というわけだ。

 ところで『審判』において、Kはなにかの「行動」をしようとしてそれを禁止されたのではなく、彼に「やましいことは何もない」。問題はプライバシーが侵害されたことではなく、権力(官僚組織)が彼のプライバシーをどのように扱っているかわからないことであり、それ以前にどのような個人情報を保有しているのか不明なことだ。そしてソロブは、アメリカをテロリストの魔手から守るために活動しているNSAアメリカ国家安全保障局)のような諜報機関がまさにそのような存在で、その活動が聖域化されていることによって、市民はNSAがどのような個人情報を保有し、そこからどうやってテロリストを摘発しようとしているかを知ることができないと述べる。これは日本でも同じで、わたしたちはカフカの『審判』的状況を生きているのだ。

 ソロブは現代的な監視機関の官僚主義の害悪を「無頓着、誤謬、濫用、失望、透明性及び説明責任の欠如」だとして、次の4つにまとめている。

(1) 集約 
一見して差し障りのないデータの小さな断片を組み合わせ、ひとびとが隠したいと願う情報を収集する。

(2) 排除 
政府による国家の安全保障上の措置は個人がアクセスできない巨大なデータベースで行なわれ、市民は自分の情報を知ることができない。

(3) 二次的利用 
特定の目的のために得られたデータを、本人の同意なくして無関係な目的のために活用する。

(4) 歪曲 
収集された個人情報がその人物の真の姿を映しだすとは限らない。人間像はしばしば歪曲され、無実のひとに「危険人物」のフラグが立てられる。

 歪曲について、ソロブは次のような例をあげている。

 あるひとがメタンフェタミンの製造方法に関する数冊の本を購入したことを当局が知ったとする。その情報により、当局は彼がメタンフェタミン製造所をつくっているのではないかと疑うことになる。だが彼は小説家で、メタンフェタミンをつくる人物を登場させようと考えただけかもしれない。

 当局に欠けているのはプライバシーの「完全なストーリー」なのだが、小説家は自分がなぜ嫌疑を受けたのかを知ることができない。

 現代においてこうした『審判』的状況にもっとも近いのが中国だろう。「くまのプーさん」についてSNSで話題にしただけで削除され、その記録はずっと当局のデータベースに残って、いつどのようなかたちで使われるかわからないのだから。 

 もちろん「やましいことは何もない論」のひとたちは、「中国と先進国はちがう」と主張するだろう。日本には個人情報を守るための法律や、人権の尊重をうたった憲法がある。

 しかしほんとうに、そこまで無邪気に国家権力を信じることができるのか。中国当局が利用している監視テクノロジーは技術的にはなんら目新しいものではなく、先進諸国でもかんたんに利用できる(あるいはすでに利用している)ものばかりだ。

 日本人はずっと、中国を「1周遅れ」だと見なしてきた。だがいつのまにか、巨大な隣国のひとびとは「未来世界」を生きているのかもしれない。

橘 玲たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない残酷すぎる真実』(新潮新書)など。新刊『幸福の「資本」論-あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)が好評発売中。

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中国では賽銭もスマホで払える(南寧の観音禅寺) (Photo:cAlt Invest Com)