前回、得意の戦法で鎌倉幕府を倒し、“日本をせんたく”した楠木正成の活躍について紹介しました。

其の参では、彼の身に降り掛かった悲劇の幕開けについて紹介します。

新政が天下に混乱をもたらし、ついに盟友尊氏が離反!

後醍醐天皇と朝廷の貴族を中心とした建武の新政は、天下を正すべく行われましたが、功績の無い貴族層による利権の独占が目立つようになり、割を食った武士達は不満を抱きます。武士の土地と言うのは生活基盤だけでなく、戦の功績など名誉ある褒美として賜ることもあったので、彼らが面目を潰されたと考えたのは、想像に難くありません。

そうした武士達が頼ったのは、後醍醐天皇が“功績第一”として褒め称えて高い官位と自分の名前から一字を与えて“尊氏”と改名させた足利高氏でした。高氏あらため尊氏は、正成と共に鎌倉幕府を討った仲間でもあり、建武2年(1335年)に北条氏の残党を討つために鎌倉へ行っていました。

しかし尊氏は鎌倉で政権を樹立し、朝廷に不信を抱く武士の総帥として謀反を起こしたのです。一見すると『謀反人=悪人』というイメージになりがちですが、本来の彼は後醍醐天皇を尊敬する忠臣でした。しかし、お人好しな上に人望がある尊氏は、武士達に突き動かされてしまったのです。いずれにしても、共に戦った二人は不幸な形で引き裂かれてしまったのでした。

尊氏に勝ったが、勝負に負けた?

正成は、尊氏とかねてから敵対していた新田義貞、皇族武将の尊良親王、公家出身の北畠顕家と言った武人達と共に、尊氏を討つべく出陣します。緒戦こそ義貞が尊氏に押され、建武3年(1336年)正月に京都を制圧されるなど不利でしたが、正成は得意の奇襲戦法で尊氏を撃退しました。

こうして、負けた尊氏は九州を目指して逃げていきますが、朝廷に背いた“賊軍”であるにもかかわらず、多くの武将が尊氏のあとをついて行き、寝返ってしまったのです。勝者である朝廷は、戦力を敗者の尊氏にごっそり持って行かれてしまったことになります。

この一件は如何に尊氏が人徳に溢れた存在であり、対する朝廷は徳ばかりか臣下の信頼を失い続けているかを、正成に痛感させたのでした。

足利軍の大逆襲!正成は打開策を打ち出すが…

『梅松論』と言う書物には、敗れても多くの人に慕われる尊氏の仁徳に改めて感じ入った正成が、「義貞を征伐し、その首を足利殿に差し出して和睦して下さい」後醍醐天皇に申し上げた、とあります。

正成は、人望があり戦も強い尊氏を許して呼び戻すことで、争いを止めようとしたのでしょう。それに対して公家衆は、賊軍と和解しようとした正成を侮辱した上、謹慎させてしまったのです。

建武3年の4月、尊氏は多々良浜の戦いで九州の支配権を手にし、光厳上皇から義貞討伐の命令書も頂戴して、京都を目指して進軍してきました。その兵数は十万を超し、義貞率いる官軍は惨敗を喫します。

これには朝廷も慌て、正成を呼び戻して尊氏を倒すように命じます。和睦もならず正攻法では勝ち目のない状況下で、正成は湊川(現在の兵庫県)で死を賭した戦いに臨むこととなったのです。次項では、彼がどのようにして最後の戦いに臨んだかを紹介します。

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