毎年、12月26日毛沢東生誕の地である湖南省韶山市で行われていた「毛沢東生誕祭」。この祭りは、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた毛沢東の業績を讃えるために長きに渡って行われてきたものだ。しかし、この数年、「毛沢東生誕祭」が行われたという話を聞くことはなくなった。これは、「党は今後、個人崇拝を廃す」と主張する習近平国家主席の強い意向が働いているものと考えられるが、今回、数年前に撮影された写真を入手することができたので、撮影者の話とともに紹介したい。

【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2018/03/post_16130_entry.html

毛沢東生誕祭」が行われる前の日、会場には、「トン、トン、トンでもない光景」が拡がっていた……。毛沢東の生家の近くにある毛沢東広場には数多くの人たちが集まり、広場のすぐ隣に設けられていた『解放区』で花火を打ち上げていた。車でやって来た人たちは、地元で買って来た大量の花火を積み卸し、バスで来た人たちは広場近くにあるみやげ屋などで花火を大量に買い込んでいる。日の暮れる前から毛沢東広場には、地鳴りや轟音のような『爆音』が鳴り響いていた。その光景は、あたかも戦時下のベイルートのようだ。

「一体、どこに行ったらこんなものを見れるのだろうかって思いましたね。中国人は、魔除けのために爆竹を鳴らすと言いますが、それにしてもハンパなかったです。『前夜祭』とも言えるような花火大会がピークを迎えたのは、午後11時半を過ぎた頃でした。数千人の人たちが間髪なく打ち上げる花火に闇夜の空はすっかり明るくなってしまい、隣にいる人の顔もハッキリと見えるようになりました。すぐ隣で話している人の声も『爆音』に消されて聞き取ることができないんです。広場には、『解放区』の方から朦々とした煙が流れてくるような始末です。直径約60.6cmの二尺玉(20号玉)や三尺玉(30号玉)なんかまだカワイイ方で、四尺玉(40号玉 )や五尺玉(50号玉 )(!!)が際限なく打ち上げられていたんです」(撮影者)

 ここまでくると、もはや“祭り”と言うことはできないだろう。毛沢東の生誕を祝いに来ているのか、それとも単にお登りさんになっているのか…。写真に映されている光景は、祭りのレベルを超えていた。午前2時過ぎには、「三尺玉に当たった」という男性が救急車で運ばれて行ったというし、その後には、血のついた包帯を頭に巻いた中年女性が広場にやって来て、毛沢東の像の前で祈りを捧げていたという。この打ち上げ花火は夜を徹して行われていたが、地元住民は、「今夜は1000万発は打ち上げられるだろう!!」などと豪語していたと言う。

 初代中国の主席だった毛沢東が死去したのは1976年のことになる。毛沢東は、「大躍進政策」や「文化大革命」による大失策で中国全土を混乱に陥れた。しかし、中国では大きな業績を遺した人物とみなされている。要するに神格化されているのだ。

 夜を徹して行われていた“大花火大会”が終わり、周囲が明るくなってくると、今度は、韶山(しょうざん)毛沢東広場の中央にある毛沢東の像の前が生花で埋め尽くされた。朝早くにやって来た人々が色とりどりの生花で像の周囲を飾ったのだ。中国各地からバスをチャーターして来た団体客、上海などからベンツBMWに乗って来た富裕層、地元で暮らしている貧しい農民など……。誰もが献花をすると手を合わせていた。その横には、毛沢東の像に向かってひれ伏している人もいた。毛沢東を敬愛しているのだ。そして、午前10時頃になると、今度は紅衛兵コスプレが登場した。紅衛兵というのは、文化大革命時期に台頭した学生を主体とする青年学生運動組織のことだ。往事、紅衛兵毛沢東に可愛がられていたという。

「私は、湖南省の北部にある小さな村から来ました。偉大な毛主席の誕生日は毎年来ています。身体が動かなくなるまで続けたいと思っています。この調子で人が来れば、20万人は集まることでしょう!!」(紅衛兵コスプレ

 現在、毛沢東の遺体は、防腐処理をされた上で北京の天安門広場にある毛主席紀念堂に安置されている。館内の撮影は禁止となっているが、誰でも見ることができる。しかし、この紀念堂は、もうすぐ見納めとなる。何故ならば、韶山市に毛沢東の遺体が戻ってくることが決まっているからだ。早ければ、年内にもそうなるだろう。

 しかし、それにしても近年までニギニギしく行われていた「毛沢東生誕祭」。それはそれでいいが、今後、この祭りが行われないのであるならば、鑑賞者としては寂しい限りだ。毛沢東を崇拝して、ここに集まった人たちは、どのような気持ちでいるのだろうか、その辺もまた知りたいところだ。
(文=小倉門司太郎)

画像:毛沢東

画像:毛沢東像