「“雑巾がけからやり直せ”ならぬ“漱石さんからやり直せ”です」。

一介の庶民の、どこにでもあるけど何か引っかかる日常を、一人芝居のスタイルで丹念に描写してきた名優・イッセー尾形。6年前にいったん公演活動に終止符を打ったが、2015年夏目漱石テーマにした一人芝居オムニバス「妄ソーセキ劇場」を発表。『坑夫』の老落語家や『明暗』の吉川夫人など、漱石作品のバラエティに富んだ脇役たちにスポットを当て、彼らの目線から名作の世界をとらえ直す。一人芝居の新シリーズとして、今まさに定着しようとしている企画だ。その作品が、イッセーにとって「特別な劇場」だという、大阪・近鉄アート館で上演される。18年ぶりの里帰りとなる公演を前に、イッセーが大阪で会見を行った。


■近鉄アート館なら新作をかけねばならないし、冒険ができる信頼がある。

──近鉄アート館は、一人芝居の新作を必ずおろす場所と決めていたそうですね。

ジァン・ジァン(注:2000年まで渋谷にあった小劇場)で新作をかけて、その生まれたばかりのネタを次に近鉄アート館で膨らませていく、育てていくという。そのサイクルが、14・5年ぐらいありましたね。だから僕にとって大切な劇場は、ジァン・ジァンと近鉄アート館。なのでこの劇場がなくなった(注:近鉄アート館は2001年に一度閉館。2014年に再オープンしている)時は「どこでやったらいいのか」と、路頭に迷いました。

──一人芝居を休止して、また復活をされるまでに何があったのでしょう?

6年前に、フリーになりました。何もできなくなったんですよ、ネタがね。長年やってた演出家とは「お互いの役割は、もう終わったんだな」と、僕なりに理解しています。ということで、ボーッとしてました(笑)。ただ身体としてはまだまだ演劇、一人芝居がやりたい。でも発表するその場がないということで、人形を作ってそれを自分の分身に見立てて、YouTubeとかで発表するということをやってました。

──その人形作りを通して、何か役者としての発見があったとか。

いや、逆です。自分が今まで身体について考えていたことを、人形を作ることで確認した、みたいな。でも次第に、欲求不満になってきましたね。やっぱり人形みたいな代用品じゃなくて、自分の身体を動かしたい。その思いが一番強かったです。

イッセー尾形の人形劇ミイラくんのぼうけん」第1話(1/3)

──そこから「妄ソーセキ劇場」を始めたきっかけは。

懇意にしていた新聞社の方から「夏目漱石生誕150年にちなんで、漱石をテーマにした一人芝居をやりませんか?」という、ありがたいお話をいただいたんです。ただ「正面から行くには荷が重いなあ」と思って、いろんな小説の脇役の人を中心に読み始めたんですが、それは僕が今までやってきた、普通の庶民を演じる所とまったく重なったんですね。もちろん時代は明治ですけれども、むしろ明治だからこそ、現代の庶民のルーツみたいなのを感じ取れなくもないってことで。

──最初は単発の企画として考えていたそうですが。

まず早稲田大学の大隈講堂で上演して、そこからかつて(一人芝居を)やったいろんな劇場からお話をいただいたんです。松山や釧路、京都で上演したんですが、やればやるほど変化したり生まれ変わってくる規模が、自分が作ったネタよりも大きい。それを今も、体感してるんです。やっぱり夏目漱石さんは相当大きい、許容量がある作品なんで、やってもやっても尽きないですね。さらに今回は久々の近鉄アート館で、自分の「今」を演じることができるという、こんな嬉しいことはないなって思ってます。でも18年ぶりの舞台で、何か新しいものを持ってくるのかって言ったら、大昔の明治の世界を持ってくるという(笑)。それがでも、現代そのものの姿でもあるなあと、演りながらするもんで。

──アート館ということで、何か特別な趣向はあるのでしょうか?

日替わりで4本の新作をおろします。アート館なら新作をやらねばという感じですし、冒険ができるという自負と信頼がありますから。というのも、漱石さんをやりながら、視野を現代に向けていくと、漱石さんの次に現れる作家は、どんな人だったんだろう? その次の人はどんなテーマを持ったんだろう? と、現代の庶民に至るまでのルーツ探しになってきて。そうなると、漱石さん以外もネタにしたいという欲求がどんどん出てきたので、川端康成さんや志賀直哉さんなどを取り上げようと。ゴーゴリなどの海外作品もやりたいですし、これはもう興味が止むことはないと思います。

イッセー尾形。

イッセー尾形。

■妄想と想像は紙一重。観ているお客様も何かを“妄想”してほしい。

──まったくの私ごとで恐縮ですが、漱石は教科書で読んだ『こころ』が苦手で、それで入れなくなった口なんですよ。

それはありますよねえ。僕の中では「『こころ』を救おう」という合い言葉があって(笑)、いつか何とかネタにしたいと思ってるんですが。漱石さんって、主人公の絶望を書いてると思うんですね。常識に則って生きるとか、自分の欲望は二の次にして……という当時の時代の風潮の中で、それ(欲望)を第一にした人たちを書いてると思うんです。世間的には非常識だけど、自分の感情こそが正義だと思って、そっちを優先する。で、優先した後に、もうどこにも身を置く所がなくなった、異邦人になっちゃった人たちなんです。でもその人たちを批判するんじゃなくて、こうならざるを得ない運命みたいなものを……愛情とまでは言いませんけど、突き放すことなく書いてるんですね。『こころ』はそれが一番激しいから、なかなか(一人芝居にするには)腰が重い(笑)。あの結婚した娘さんのお母さんが、実はいろいろコントロールしてんじゃないかとは、読んでいて感じるんですが。

『妄ソーセキ劇場』より、『草枕』の床屋。

『妄ソーセキ劇場』より、『草枕』の床屋。

──そういう風に、脇役の人たちが小説には書かれていない所で、何を考えたり、どんな行動をしていたのかを想像するのが「妄ソーセキ劇場」ということなんですね。

そうそう。主人公外の人たちが「裏でこんなことを話してたかもしれない」というのを妄想して作りました。そしてお客様も、それを観て何か妄想してほしい。妄想と想像は紙一重だと思うんですけど、そういう読み方もありえるし、(小説内で)そういう事態があってもいいじゃないか、みたいな。そこの所は、やればやるほど素晴らしい出発点だったなあと思います。中でも漱石さんが現代に直結してると思うのは、(登場人物の)自制がゆるいことなんですね。「これを言ったら叩かれるから、止めておこう」というのがあまりなくて、自分の欲望を割とむき出してくるんです。たとえば『明暗』の吉川夫人なんて、世話好きが一歩進んで相手を呪縛してる感じがする。今だったら「そこまでやったら……」という自制がかかるけど、簡単にそれを超えちゃうんです。だからある意味、現代の人たちが抑制している願望の姿であるかもしれない。

『妄ソーセキ劇場』より、『明暗』の吉川夫人。

『妄ソーセキ劇場』より、『明暗』の吉川夫人。

──その「願望」を反映した人を、今回特にチョイスしたということでしょうか?

「そういう風にも読めるなあ」というネタを集めた結果、そうなりましたね。たとえば『門』の小六って人は、主人公である兄が学費に無頓着だったから、学校に行けなくて宙ぶらりんになったという、今で言うニートとかフリータールーツかなあと思うんです。持て余した自分をどうするか? っていうのが大問題で。多分明治に入るまでは、そんな人はあまりいなかったと思うんです。明治になって「イケイケドンドン出世しろ」と言われるけど、では出世できなかった「落ちこぼれ」はどうなるんだ? と。しかも落ちこぼれというのが、多分史上初の存在だから、まだそれが何なのかわからない(笑)。自分の今の状態を認識できない、元祖ニートの深刻な話……ともとらえられるんですよ。でもこれって現代から見たら、割と滑稽なことなのかもしれないなあ、みたいなね。そういう時間の優しい眼差しで見ることもできると思うんです。だからそんな風に、昔と今を絶えず交互に、舞台と客席のキャッチボールがあるような。演じていて、それを感じます。

『妄ソーセキ劇場』より、『門』の小六。

『妄ソーセキ劇場』より、『門』の小六。

■身体が変わっていくことをお互いに認め合う、優しい空間に。

──これを観るにあたって、やはり原作を読んでおかねばならないのかと思うのですが。

読んでたからどうってことはないし、読まなかったからどうってこともないと思います。漱石さんからどんどん離れてますから、自分が。漱石さんから生まれたんですけど、でも生まれたことから生まれたこと、またこれから生まれることっていう風に、どんどん遠ざかってる気がするんで。だからむしろ、読んでない方がいいかもしれない(笑)。読んでても、その内容は忘れてください。

──特にアート館でやることで、変化しそうな所はありますか?

この作品は、これまで割と大きな劇場でやってたので、(約400席の)アート館ぐらいの空間でやるのは初めてなんです。僕が昔やってたネタは、小さい所から育てていたんですけど、大きな所から育てて小に戻ってくるというのが、すごく楽しみなんです。小さい所から大きな所に行った時の発見は今まであったんですけれども、至近距離用の発見っていうのは今までなかったので、自分でも何を発見するか予期できない。今までが1メートルとか50センチの世界だったとしたら、アート館は1ミリ2ミリのサイズに集中してくると思うんです。もう皮膚呼吸ですよね(笑)。漱石さんという演目とは関係なく、単純に身体がそこにいる、出る、見てもらうっていうのが楽しみです。

イッセー尾形。

イッセー尾形。

──6年ぶりに舞台に立って、昔の身体と今の身体の違いをいろいろ感じられているのではないかと思いますが、「年を取ったからできること」は、何かありますか?

今それを考えてるし、味わってる。まさに発掘の最中ですね。身体が動かなくなるのはマイナスだと、普通はそう考えるんでしょうけど……確かに若い頃は身体が動いてたけど、「動いてた」ってこと自体を自覚してないんですよね。動いて当たり前だから。でも動かなくなると、動けることがよく見えますよね。そこなんですよ。立ち上がるにも「よいしょ」だし、膝の痛みをどう隠して演ろうか、とか(笑)。でもどっちにしろ、66歳が演じることを皆さん知ってますから「あ、66歳が若いふりをして立ち上がってる」と、そこに共感していただけたらと思うんですね。だから身体が変わっていくことも、お互いに認め合う空間が、優しい空間だなあと。ぜひ優しい眼差しで観てください(笑)

──一度は「もうやり尽くした」と思っていたのに、漱石さんのおかげで新しい鉱脈が見つかって、まだこれからも様々な“庶民”の姿を見せてくれそうですね。

そうですそうです。もう漱石さんのおかげです。出会うべくして出会ったのかと(笑)。ただ最近あんまり僕の中に入ってこないんですね、現代人が。街で見かけた人からインスピレーションがわいて「これをネタにしよう」という、今まであったサイクルが失われちゃってて。僕がフリーになったせいなのか、あるいは時代のせいなのかはわかりませんけど。だからそんな中で、一回明治に戻って……「雑巾がけからやり直せ」じゃないですけど「漱石さんからやり直せ」というようなことなのかな、と思います。だからゆくゆくは、現代にもう一度出会い直したいですね。そういう壮大なプランがあるんです。

イッセー尾形

イッセー尾形

取材・文=吉永美和子

夏目漱石の有名なポーズを真似するイッセー尾形。