保科省吾[コラムニスト

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週刊文春」に掲載のビートたけしによる短編小説「ゴンちゃん、またね。」。

この小説を読んで真っ先に思ったのは、ビートたけしは「ペーソスの人である」ということである。北野武でもビートたけしでも本質は「ペーソスの人である」。ペーソスの辞書的解釈は「もの悲しい情緒。哀愁。哀感」ということである。

だが、この世代の人はペーソスに反感を持っていた、特に笑いの人はそうだった。「男はつらいよ」は認めない、泣かせてどうするのだ、笑わせることに比べたら、泣かせるのなんか簡単。感動させて何がおもしろい。秩序もルール大嫌いだ、ぶち破れ。そうカッコつける自分は新しい。

【参考】<NHK「これがホントのニッポン芸能史」>「今、落語を勉強している」と語るビートたけしのコント観・芸能観

とはいえ、日本の笑いの人が好んで参考にしたのはそれこそペーソスの人チャップリンだった、笑わないコメディアン、キートンも乾いたギャグをやりきった後のその目には悲しみがたたえられていた。ほとんどの笑いはペーソスと隣り合わせに存在している。

マンザイのビートたけしは乾いたギャグばかりをやった。しかしそれでは物足りなかったのだろう。有名になって、テレビコントやらせてもらえるようになるとペーソスが忍び込んできた。コントは短いが芝居なのである。

筆者はビートたけしの発案をコント台本としてまとめる仕事をなんどもやったが、まるで、マンガギャグをそのまま実写に移し替えたような映像化困難のものが多くあった、さらにペーソスも多かった。ヘビースモーカーと言われた課長(たけし)がデスクの上でヘビの着ぐるみを来てタバコを吸っている。全く笑えないギャグだがペーソスが漂っていることに筆者はひどく驚いた。

ご存知のように映画監督になってからの北野武は全くペーソスの芸術家になった。

そして、小説家ビートたけしもいま、ペーソスと生きている。