「使えない新人」「無能な上司」など、ネット上では無能な人に対する不満を目にすることがよくある。先月のはてな匿名ダイアリーでは、こうした風潮に「そんなに有能な人ばかりが必要なのか?」と疑問を呈するエントリがあった。

投稿者は、「無能のせいで世の中がこうなってしまっている」「有能な人間はそれに足を引っ張られている、だから無能は滅びろ」などと無能を嫌う人たちは、さほど有能とは思えないという。有能・無能は相対的なもので、「世の中の人を全て比較していけば99%の人は無能な人間」であり、残り1%の人たちだけを集めても、今度はその中で有能無能が分かれるとしている。(文:okei

個人の能力に依存しないで、全体のシステムでカバーしていく必要がある

投稿者も言っていますが、有能無能は相対評価ですよね。

つまりほとんどの人類が無能であり、「無能は滅びろ」は、「人類が滅びることと同義」と自論を語る投稿者。個人の無能が目立つときは、それを補うはずの「『組織』や『教育』に問題があると考えるのが筋だ」と意見した。

「組織の規模が大きくなればなるほど、個人の優劣が組織の優劣に影響しない事が良い組織の条件になっていくのだと思う」

つまり、個人の能力に依存しないで、全体のシステムでカバーしていくことが大事、という主張だろう。さらに次のように問題提起している。

「日本の組織の問題点は平社員や中間管理職、教師、アルバイト店員などといった、本来は無能でもさほど問題ないはずの末端の人々にまで有能さを求めてしまっている事にあるのではないだろうか」

ほとんどの人を「無能」として語るのはちょっと乱暴だが、要するに、ほとんどの人は「凡人」や「平均的な普通の人」なので、個人に対する過度な期待や責任の押しつけはよくないと言いたいのだろう。確かに大きな組織になれば全員が優秀なわけではないし、教育が上手くいっていればもっと優秀な人が増えているとも考えられる。

個人への過度な期待や厳しい目を多少手放すだけで、平凡な人も生きやすくなるのでは

ブックマークは600近く付き、様々な意見が挙がる中、

「増田(筆者注:投稿者)は正しい。ほとんどの人間が精鋭ではないのだから凡人でも回る社会、組織にしないと続かないよ」
「ネットの鋭利な議論を見てると、無能まで行かなくても、『偏差値45の人でも生きやすい社会とはどんなもんだ』と三流の人間として切実に思う」

など、共感するコメントは多かった。

他方、「人は狭い分野でしか有能になれないと思う。興味無い分野では誰もが無能だ」との意見や、「そういった不満は適材適所が成立していないからそうなる」など、人材のマッチング不適合に対する指摘も随分出ている。中には「ネットでわめいてる人のいう無能っていうのは(中略)見下して優越感を得る格好のターゲットって意味。言葉に拘る意味はあまりない」という声もあった。筆者も同感だ。

ただ、このエントリは1カ月近く経ってもコメントが付いていて、多くの人にとって見過ごせない議題だったことがうかがえる。やはり世の中、自分の能力に自信がある人ばかりではない。「個人に対する過度な期待」や、「失敗=即無能と断定」などの厳しい目を多少手放してもらうだけで、平凡な人も生きやすい社会になるのではないだろうか。