明治2年5月18日戊辰戦争終結の日です。その目前、降伏を待たずに命を散らした2人の幕臣がいました。1人は言わずと知れた新選組の鬼副長・土方歳三。もう1人は歳三の昔からの親友であり、遊撃隊の隊長だった伊庭八郎です。今回はそんな彼らの友情と死に思いを馳せます。

新選組結成前から親友

八郎は天保15年(1844)生まれで、歳三より9歳(数えでは8歳)年下の青年でした。実家は幕末4大剣術道場の1つ、心形刀流の宗家。子供の頃は読書の方が好きで「剣術はあんまり・・・」という控えめな性格だったものの、10代半ばには持って生まれた剣術の才能が開花。妖異的な俊敏さから、彼は「伊庭の小天狗」と呼ばれるまでになります。

そんな八郎は何らかの縁から、新選組メンバーと交流するようになります。

流泉小史「新選組剣豪秘話」によると、伊庭八郎は天然理心流の試衛館道場に3日もあけず遊びに来て、歳三ほか近藤勇、沖田、永倉らと蕎麦を食べていたといいます。特に歳三とは馬が合ったらしく、勇の父・周助にお小遣いを貰っては2人で吉原遊廓に通ったという話もあります(真偽に関しては諸説あり)。歳三にとって近藤勇は無二の親友でしたが尊敬する存在でもあり、悪所通いに誘える対象ではありませんでした。そういう時には悪友・八郎の出番。八郎は当時からイケメンで有名だったので、歳三と2人で吉原を歩けばさぞやモテた事でしょう。

戊辰戦争での再会

やがて歳三らは上洛し、新選組を結成。一方の八郎は江戸に残り、幕臣子弟に剣術等を指導する講武所の教授に。離れた地で互いに幕府のために奔走していた2人でしたが、くされ縁とはこの事でしょうか、再び巡り会う事になるのです。

1868年、旧幕府軍VS新政府軍の戊辰戦争が京で勃発。連戦連敗でしだいに追い詰められた歳三ら旧幕府軍は戦いを重ねながら北上し、ついに北海道箱館に到達します。その地で、くしくも後から箱館に渡ってきた昔馴染みの八郎と再会したのです。

しかしその時にはすでに、八郎の左腕から先は無くなっていました。箱根における小田原藩との戦闘で深い傷を負い、切断したのです。

片腕を失った八郎の図。芳年「競勢酔虎伝 伊場七郎」Wikipediaより

※本来切り落とされたのは左腕。また、明治政府の目を恐れて「八郎」を「七郎」と改変しています

歳三はそんな八郎とどんな会話を交わしたでしょうか。多くの仲間の死を目の当たりにしてきた2人ですから、腕の事よりも生きて再会できた事を喜んだかもしれません。

しばらくして行われた箱館での入れ札(投票)により、歳三は陸軍奉行並、また八郎は隻腕ながらも遊撃隊隊長に抜擢されます。ハンデを承知でもこの人に付いていきたいと思わせる八郎の技量と人柄が窺い知れます。

それぞれの最期

2人は別々に兵を率いて箱館の地で最後の戦いに挑みます。

そして八郎は木古内の戦いで胸を狙撃され、わずかに急所を逸れたものの重傷で病院に運ばれます。また、歳三は二股口を死守し連戦連勝を重ねながらも旧幕府軍全体の劣勢を挽回するには至らず、弁天台場でピンチを迎えた元新選組の仲間たちを助けに向かう途中で被弾します。

明治2年5月11日土方歳三戦死。

写真:弁天台場 Wikipediaより

一方の八郎は病院で療養していましたが、傷はもはや手の施しようのないほど悪化していました。死期を悟った八郎はモルヒネを飲んで自決。明治2年5月12日、歳三の死の翌日の事でした。

埋葬地は特定されていませんが、旧幕府軍関係者の発言記録によると、旧友の2人は箱館の地で隣同士に埋葬されたといいます。思い返せば井上源三郎近藤勇沖田総司・・・その他大勢の旧友に先立たれた寂寥を抱えながら、箱館の地まで戦い続けた歳三。そんな彼を、八郎だけは置いてけぼりにしなかったのです。

「どうだい、俺だけはトシさんより先に死ななかったろ!」「たった1日違いだろうが」・・・なんていう2人の笑い声が空の上から聞こえてきそうです。

参考文献:

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