ロシア不老不死研究が本格的にスタートするらしい。具体的には脳のデータを複製し、それを人工的な身体に搭載することで不老不死を実現する計画のようだ。

が、これは第三者から見たら不老不死でも、本人的にはクローンが生き続けるのであって、自分自身は本体である肉体と一緒に死んでしまうのではないか。記憶や思考回路、癖などを複製したところで、本人の自意識自体が生き続けられるわけではない。このあたり、グレッグ・イーガンの短編小説『ぼくになることを』(ハヤカワ文庫SF『祈りの海』所収)で非常に面白く描かれてるので興味がある方はぜひ。

ということで、ロシア不老不死研究は真の不老不死とは言い難い。だがユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのパートリッジ教授によれば、不老不死を可能とする薬品が10年以内に実用化されるらしい。複製ではなく、自分自身が不老不死

これぞ人類の夢! と喜びたいところだが、一般的な価値観として「限りあるから人生は素晴らしい」というものがあり、それを補強するかのように、フィクションに登場する不老不死は否定的に描かれがちである。たとえば手塚治虫の『火の鳥』なんてその最たるものだろうし、高橋留美子の『人魚』シリーズも不老不死の悲劇性に重点が置かれている。

また、数多く存在する吸血鬼ものの作品群では、はっきりと不老不死者=モンスターとして描かれる。生命に限りのある我々とは異なり、不老不死を得た者は、そうでない者からすれば、非常に不気味な存在なのである。吸血鬼の立場から描かれる場合も、一人で生き続ける者の孤独が強調される。不老不死実現の際には、これらで描かれるような価値観を背景に、反対運動が起こるかもしれない。

だが、現実に科学的に不老不死が実現するならば、望めば誰もがそうなれる。不老不死者は我々とは異なる不気味な存在ではなくなるし、もちろん孤独な存在でもなくなる。

であれば、万人に不老不死技術が開放されたなら、不老不死への拒否反応は大幅に減じるだろう。その代わり、限りない人生ゆえ、松本零士の『銀河鉄道999』に登場する機械化人たちの描写にも見られたように、「明日やればいいや」といった気分で怠惰な日々を送る人々も多数現れるに違いない。有限の命か無限の命か、実現していないこととはいえ悩むところだ。

ただしひとつ忘れてはならないのは、不老不死不死身ではない、ということである。あくまで老衰がないだけで、怪我をしてもみるみる治るわけではない。食わなきゃ餓死もするだろう。一度不老不死を選んだら永遠に生き続ける、わけではないのだ。

そんなわけで、「飽きたら止める」前提で不老不死を試してみる、程度ならいいかもしれない。人生に飽きても死ぬのは怖いという方は、藤子・F・不二雄の『モジャ公』に出てくる、不老不死者が苦しまずにきれいさっぱり消えられる「0次元」のようなシステムが登場するまで待ってみる、とか。不老不死なら待つ時間はいくらでもあるんだし。

(田中 元)