麻生太郎財務相は、財務省福田淳一前事務次官のセクハラ問題で「セクハラ罪はない」と発言して批判を受けたが、5月8日記者会見で「セクハラ罪って罪はないと思う」と改めて主張し、「事実を申し上げているだけだ」と述べた。麻生氏は、福田氏の辞任承認を公表した際も、セクハラ疑惑について「はめられて訴えられているんじゃないかとか、世の中にご意見ある」と語って、野党から批判の声が上がったが、まったく懲りていないようだ。

 また、森友学園の公文書改ざん問題についても「どの組織だってありうる。個人の問題だ」などと発言し、物議を醸している。なぜ麻生氏はわざわざ問題となるような発言をするのか? しかも、批判を受けても一向に意に介さず、問題発言を繰り返すのはなぜなのか?

 麻生氏の言動を分析すると、次の3つの特徴に気づく。

(1)強い特権意識
(2)想像力の欠如
(3)自覚の欠如

 いくら批判を浴びても懲りずに麻生氏が問題発言を繰り返すのは、「自分は特別な人間だから、少々のことは許される」という特権意識を抱いているせいのように見える。もっとも、(1)強い特権意識を抱いても当然と思えるほどの名門一族の生まれである。

 まず、明治の元勲、大久保利通NHK大河ドラマ西郷どん』で瑛太さんが演じている人物)を高祖父に持つ。また、1951年に首相としてサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結した吉田茂は、母方の祖父である。しかも、妹の信子さんは皇室に嫁いでいる。したがって、超のつく名門の血筋のうえ、麻生家は九州三大石炭財閥の一つに数えられたほどの大富豪なのだから、麻生氏が特権意識を抱いても不思議ではない。

 このような名門の大富豪御曹司として生まれた麻生氏は、幼い頃から使用人にかしずかれ、何でも許容されてきたのだろう。そのため、こんなことを言うと相手がどう感じるかとか、こんなことをすると相手がどう思うかと想像力を働かせる必要がなかったのではないか。
 
 そもそも、われわれが日々の生活で想像力を働かせるのは、そうしなければ困ることがあるからだ。反感を買ったらどうしよう、怒らせたらどうしようなどと気にするからこそ、相手の反応を想像する。そして、自分が困るような反応が返ってきそうだったら、わが身を守るために言動を慎む。

 しかし、何でも許容される環境で育った麻生氏は、そんなことをする必要などなかったはずだ。必要がなければ、想像力は育たない。だから、(2)想像力の欠如が認められるのは当然で、自分の発言がセクハラ被害者をどれほど傷つけるかも、公文書への信頼性がどれほど失われるかも想像できない。もちろん、大衆の反感と怒りをどれほどかき立てるかも、批判をどれほど浴びるかも想像できない。いや、そもそも想像してみようとさえしない。

 そのうえ、麻生氏には(3)自覚の欠如も認められる。セクハラも公文書改ざんも、自らがトップを務める財務省で起こった不祥事であるにもかかわらず、真摯に反省する姿勢を見せない。トップとして責任を取るつもりもないようだ。これは、(1)強い特権意識ゆえに、自分だけは何でも許されると思い込んでいるからだろう。

●偉大な祖父への同一化

 麻生氏が問題発言を繰り返す一因として見逃せないのが、祖父の吉田茂への同一化である。同一化とは、「あの人のようになりたい」と願い、その言動を模倣することであり、われわれは知らず知らずのうちに誰かへの同一化を繰り返している。たとえば、仕事ができて、人望もある上司や先輩がいたら、仕草や話し方をまねることがあるが、これも同一化の一つにほかならない。

 誰に同一化するかというのは、人格形成において非常に重要だ。同一化の対象が、麻生氏の場合は祖父の吉田茂であるように見える。吉田茂は、国会で野党の質問者に対して「バカヤロー」と発言したため、野党に懲罰動議を提出され、衆院が解散したほど(「バカヤロー解散」)、暴言で有名だった。

 もしかしたら、麻生氏は偉大な祖父に同一化しようとするあまり、暴言を吐くことが祖父に近づく道だと思い込んでいるのかもしれない。もっとも、政治家として大きな実績を残した祖父と比べると、少なくとも私の知る限り、麻生氏にはこれといった実績がなさそうだ。だからこそ、よけいに暴言が目立つのかもしれないが、われわれ国民にとっては耳障りである。
(文=片田珠美/精神科医)

写真:毎日新聞社/アフロ