毎号必ず発売日に買って、しかもすべての文章を隅々まで読む雑誌というのは、今や辰巳出版の「Gスピリッツ」だけになった。雑誌というかムックなのだが。本誌は元「週刊ゴング」系のフリー編集者やライターによって作られている。ドクトル・ルチャこと清水勉氏と小佐野景浩氏が主筆と言っていいだろう。目玉は昭和のプロレスを対象にした特集で、小佐野氏が中心となったロング・インタビュー、対談記事が毎回楽しみなのである。

今号の特集は〈馬場夫妻と全日本プロレス〉だ。これまでにも何回か全日本プロレスの特集は組まれてきたが、先日伝えられた馬場元子氏(ジャイアント馬場夫人)の訃報を受けてのものだろう。特集に登場したのは何代目かのジャイアント馬場付き人である佐藤昭雄氏、全日本プロレスでは外様の扱いを受けていたグレート小鹿選手とキム・ドク選手(共にまだ引退はしていない)、やはり付き人で元子に可愛がられた大仁田厚氏(現在引退中)、分裂後の全日本を支えた川田利明選手と和田京平レフェリーである。

ジャイアント馬場=有能なプロモーター
日本の男子プロレス興行は、力道山の日本プロレス一強時代から語られることが普通だ。まず国際プロレスが出現したことで対抗勢力ができる。次いで短命に終わった東京プロレスを経てアントニオ猪木新日本プロレスを旗揚げ、ジャイアント馬場全日本プロレスを作ったことで日本プロレスは命脈を絶たれて終焉を迎える。三団体時代になったとき、日本プロレスの伝統を受け継いだのはその全日本プロレスであるとされた。国際・新日本の両団体が成立こそ先だったが後発団体としてアイデア勝負をしなければならなかったのに対し、全日本プロレスは日本プロレスの文化を引き継ぐことが可能だった。外国人のスターレスラーの招聘と、それを前提にした日本テレビの中継である。ジャイアント馬場というレスラーは、団体の花形選手であると同時に、アメリカ・マット界の最大勢力NWAにも太いパイプを持った、やり手のプロレス・ビジネスパースンでもあったとされてきたのである。スタン・ハンセンファンクスといった証言者がそれを裏付けたことで、ジャイアント馬場=有能なプロモーターというイメージは確立された。

今回の特集はその見方に疑問符をつきつけるものになっている。佐藤昭雄は1980年代前期に馬場に代わってマッチメイカーを務め、ジャンボ鶴田へのエース交替と最大のライバル・天龍源一郎のスター化を成し遂げた人物である。最終的にはWWF(現・WWE)の極東エージェントに就任し、選手としてはともかく背広組としてはアメリカ・マット界で最も出世した。その佐藤は以前からジャイアント馬場の経営手腕には限界があったことを指摘してきたが、今回のインタビューではかなり核心に触れた発言をしている。これは馬場元子氏が亡くなったから可能になったものだろう。ジャイアント馬場は没後に神格化されたが、プロレス・メディアがマイナー化するにつれて御用新聞的な書かれ方が減ったこともあり、人間性が改めて評価されるようになった。「Gスピリッツ」はそれに最も貢献したメディアだろう。

関係者に暗黙の了解でもあったのか、なかなか神格化のヴェールが剥がされなかったのが、この経営者・馬場正平の実像だったように思う。2014年に単行本化された柳澤健『1964年ジャイアント馬場』を見ると、選手としての第一線を退いての馬場については昔話さながらで「そしていつまでも幸せに暮らしました」と要約できそうな書きぶりになっている。これは関係者からの証言が得られなかったゆえの苦肉の策であろう。たとえば重要な証人の一人が佐藤昭雄だが、小佐野によれば彼は非専門誌はおろかプロレス・メディアの人間とも接触を断っているという。小佐野のような旧知の人間以外からはインタビューを受けないのだ。そうした事情について読んでいたので、今回の特集に寄せられた証言は本当に貴重だと感じる。

三沢光晴の謎
実は「Gスピリッツ」は前号から〈『全日本プロレス中継』ゴールデンタイム復帰への道〉という特別企画を掲載しており、日本テレビ・スポーツ局で全日本プロレス中継を長く担当していた原章氏へのインタビューを行って、1985年ゴールデンタイム復帰前後の事情を解き明かしている。それによって俗説の真偽も明らかになった部分があり、改めて関係者証言の重要さを思い知らされたのである。以前も「Gスピリッツ」はスーパータイガージム時代について佐山聡から意外な証言を引き出している。この雑誌を私が隅から隅まで読まないと落ち着かないのはそうした新発見が必ずあるからで、毎号毎号半端ではない期待を持ってページを開くのである。

新発見というわけではないが今回おもしろかったのが、和田・川田対談である。両者の付き人・下積み時代から全日本プロレス分裂史に話題は及んでいくのだが、その中で三沢光晴氏(故人)がなぜジャイアント馬場に現場の指揮権を渡すよう強く迫ったか、というくだりがあった。三沢氏が権限移譲を受けた後にジャイアント馬場は体調を崩し、1999年1月に亡くなってしまう。この二つの出来事に因果関係がある、つまり馬場が亡くなった責任の一端は三沢氏にあると元子氏が強く思い込んだために二人の関係が崩れたという説がある。それについて触れた箇所だ。

京平 三沢に「京平ちゃん、カードは誰が作ってんの?」と聞かれて、「社長(馬場)だよ」、「嘘だよ、ターザン(山本)じゃないの?」って。その辺がバレてきちゃったんだよね。隠せなくなったというか。その辺から「何で(団体の)外の人がやるの? だったら、俺らがやるよ」という感じだろうな。(後略)

公然の秘密
全日本プロレスSWSへの大量選手離脱後の超世代軍期・四天王プロレス期に人気の絶頂を迎える。そのときにジャイアント馬場ブレインとなっていたのが当時「週刊プロレス」編集長だったターザン山本氏と部下の市瀬英俊氏、というのは当人の証言もあって公然の秘密になっている。今号でも山本氏が行ったアドバイスが興行のありようを変えたことを和田レフェリーが証言しているが、三沢に権限移譲を思い立たせた引き金は外部から来た人間がマッチメイクなどの重要事を決めていたから、とも読むことができる。
つまり、みんなターザン山本のせい!
「杉江松恋)