プロレスと演劇を並列に語って共感してくれるのは、カムカムミニキーナの松村武くらいかなと思うけれど、長く見続けている人ほど、当たり前だが語りたいものがあって、時間の経過とともに名作(名試合)に対する思いが強くなるジャンルはないかもしれない。「あのときのあれはよかった」そんな話は、見ていない人間にとっては単なる自慢にしか聞こえないし、最近はユーチューブでかなり見られてしまう場合もあるけど、その瞬間の熱量までは体感することもできない。決して“かつて”は再現できないけれど、しかし新たな息吹を吹き込み、今という時代と呼吸する形でなら生き続けられる、それが演劇の戯曲だと思う。プロレスはそうはいかないけれどね。そういう意味で、柿喰う客の中屋敷法仁の挑戦は、語れる事件だと思うし、まずはその挑戦自体を評価してもよいのではないかという気もする。『赤鬼』に続いて、野田秀樹の『半神』を手がけたのだ。

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

少女漫画というジャンルを軽々と超えて高い人気を誇る萩尾望都との共同脚本、メディア出演の相乗効果もあって波に乗る1986年に劇団夢の遊眠社が初演した代表作は、再演を繰り返すことで伝説になった。99年にはNODAMAPで、2014年には東京芸術劇場と韓国の明洞芸術劇場との共同制作として野田が演出したが、つくり手も観客も思い入れの強い作品だけに、なかなか手の出しずらい状況にあるのかもしれない。いや、自作を自分で演出する傾向が強い小劇場文化(あえてそう位置づけますが)の中では、他人の戯曲に手を出そうとする演出家がまずいない。そういう意味では、故つかこうへいの『熱海殺人事件』などは幸福な作品だ。野田秀樹マニアの松村が、自身が野田の演じた役を引き受けたこととともにプログラムで語っていたけれど「リスク」なのかもしれない。でもリスクがある挑戦こそ面白い。

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

痩せこけて醜い容姿ながら高い知能を持つ姉のシュラと、誰からも愛される美しい容姿だが知能が低く話すこともできない妹のマリア。二人は身体の一部がつながっている結合双生児の姉妹。シュラは無邪気で周囲の愛を一身に集めるマリアを疎ましく思いながらも、彼女を支えて面倒を見ながら生きていた。孤独に憧れるシュラだったが、10歳を前に二人の身体は衰弱し、切り離さなければどちらも生きられない自体に……。

「1/2+1/2=2/4」物語のキーポイントとなる、らせん方程式。ほかの作品に比べればわかりやすいと野田も語る『半神』だが、数学が苦手で頭の固いボクのような人間は、入り口でつまづいて混沌の渦に取り残されてしまったりするのだが、そこは、そういうものだと思ってススメ! 中屋敷版は、ボルダリングの壁のような、最近では見たこともないような切り立った八百屋の舞台装置にまず圧倒される。装置を駆け登ったり、物語の象徴となる渦を描いたり、踊ったりと役者たちが狭いアクティングエリアを駆け回る。このステージングが、双子と家族、双子を仲間に引き寄せようとする化け物集団のいる世界という構造をわかりやすくさせていたと思う。

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

シャムの双子を演じる乃木坂46の桜井玲香と日本舞踊家でもある藤間爽子という意外性のある組み合わせが健闘していた。二人はたくまずして幼さを醸し出す。桜井のシュラが生と孤独へのこだわりゆえに見せる悪魔の表情は、アイドルイメージをかなぐり捨てた、どこか向こう側へ観客を誘うような印象を持った。一方、天使のようにキラキラと笑う藤間のマリアは奔放でありつつも、不機嫌なシュラを愛し、信頼を示すように纏わりつき、強く抱きしめる。

シャムの双子を生まれた時から見ている家族のあきらめに反して、二人を成長させようとしてきた家庭教師は、どちらかを残すという判断に「割り切れなさ」を感じる。中屋敷演出は、そこにスポットをグッと当てようとしていたように思う。どんなに割り切れなくても、大人はぐっと飲み込んで折り合いをつけるものだ。その割り切れなさを口にする家庭教師は、何かと善悪、白黒、右左などなどすっぱりと色分けしたがる現代の風潮に、もやもやであり、ハザマにあるグラデーションという答えもあってもいいことを投げかけてくる。折り合いをつけてしまったら、なかったことにしてしまっていいものか、と。スフィンクスガブリエルマーメイドユニコーンら化け物たちが人間とは、世界とは、を説くせりふには物語を壮大な世界観へと昇華させるというよりは、もっと現実的な家庭教師の葛藤へと向かっていた。そして葬られる形になってしまった者への鎮魂として引用された萩尾の『霧笛』の一節は、やっぱり素敵だ。

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】

そして、この舞台を担っていたのは、らせん方程式の謎とボケを持ち込んで物語を混乱に陥れる老数学者と老ドクターの兄弟を一人で演じる松村武だと思う。野田のイメージを乗り越えようと鬼気迫る演技だった。オープニングシュラマリアと同じ9歳の子供たちが教室で演じる『半神』というオリジナルの設定による導入で、彼らの担任として登場するが、夢の遊眠社『半神』を見て演劇に本格的に目覚めたという松村自身がこの稽古場で似たような存在だったのかもしれない。

『半神』は、野田や萩尾、それに携わった役者だけでなく、出会えた観客にとっても大事な作品なのだと思う。だから伝説になった。中屋敷版『半神』は、混沌を整理し、わかりやすい演出だったかもしれないが、観客に感動を届けられていたと思う。「もっとこういうことが描かれていたはず」という意見もあることだろう。それは逆に野田戯曲のすごさ、深みを改めて伝えることにつながる。だからこそ若い演出家が先人の名作をもっともっと発掘し、演出して、独自の視点で新たに舞台化してほしいと思う。昭和初期までの近代戯曲は現代の演出家によって上演される機会は多いが、現代演劇においてはなかなかそれがなされない。本当に素晴らしい戯曲が次世代によって引き継がれることは小劇場文化の重要性を裏付ける財産になる。そのときは、前の方がよかったと伝説に囚われた感覚で一蹴するのもいいが、今の時代に生まれた作品として、新たな観客との出会いのきっかけとして素直に評価することも大事ではないか。

文=いまいこういち

舞台『半神』ゲネプロより【撮影:田中亜紀】