闇夜の中、尖閣諸島の魚釣島にたったひとりで上陸し、山頂の崖から日の丸を掲げた男がいた。元海上自衛隊特殊部隊小隊長、伊藤祐靖氏。8.19上陸の隠された事実を語ってくれた。

***

■山頂では蛍が光り、ヤギ、ネズミの姿が

8月19日尖閣諸島の魚釣島(うおつりしま)に一番先に上陸したのが伊藤祐靖(いとうすけやす)さんでしたよね。

伊藤 午前4時に船が尖閣諸島沖400mの距離に到着したところで、「暗闇の中ではもうこれ以上、船は島に近づかないだろう」と判断し、ひとりでひっそり足から入水しました。

午前4時は日の出前。あたりはまだ真っ暗じゃないですか?

伊藤 そうですね。それでも最初は「潜行」といって、バレないように5mほど海面下に潜ってから水平移動に切り替え、海中を移動しました。そして、約50m進んでから浮上を開始します。浮上するときは体をくるりと反転させて仰向けにします。すると、水面に対して顔だけが出ます。

―なんでそこまで……。

伊藤 見つからないためです。浮上したら水面に出した顔を360度回転させ、全方位を確認します。これで異常がなければ警戒終了。あとは魚釣島の灯台の明かりを頼りに島まで泳いで上陸しました。

―水中メガネやウエットスーツは装備していたんですか?

伊藤 水中メガネはつけていません。服装はウエットスーツではなく、上下ともぴったりした黒の薄いタイツ生地。入水する際には持参したフィンをつけました。上陸した後はリュックサックにフィンをつけて、まずは灯台に行って国旗をくくりつけました。その作業が終わったのが4時半です。

―上陸した魚釣島はどんな様子でしたか? ほかの上陸者から「漂着物などのゴミがかなりある。また上陸してきれいにしたい」という言葉を聞きましたが。

伊藤 島の海沿いのほうは確かにそうかもしれません。でも山の中は人が足を踏み入れた形跡がまったくありません。こういう場所は国内では珍しいです。上陸後、島の尾根を目指して山に登りましたが、途中にはホタルがたくさんいました。

―夜明け前にホタルの群れですか。幻想的ですね。

伊藤 いや、ヒヤヒヤしましたよ(笑)。ホタルは人が近づくと光るんです。あまりにもたくさん光ったので、その明るさで自分が上陸したことがバレるんじゃないかとドキドキしていました。

―魚釣島ではヤギが繁殖して1000頭近くいるそうですが。

伊藤 ヤギはいました。ヘビやネズミもたくさんいましたね。

―伊藤さんは上陸後、なぜ山の尾根に向かったのですか?

伊藤 できるだけ島の高い場所に国旗を掲げるためです。簡単に揚げられない場所に揚げたかったんです。


―魚釣島の最高標高は362m。どのあたりまで上ったんですか?

伊藤 標高200mから300mの間でしょうね。尾根に着いたのが午前5時半で、尾根をたどって国旗を掲げるのにちょうどいい場所を探すのにそこから1時間ぐらいかかりました。

―「いい場所」というのは?

伊藤 海からもよく見える場所。つまり、絶壁です。

―絶壁って、崩れやすいんじゃないですか?

伊藤 そう。それに絶壁から飛び出してしまうと死ぬからシャレにならない。絶壁で、しかも足場が良くて、命綱をかけられる木がある場所を探しました。その日は日の出がマルロクヒトキュウ(6時19分)でしたから、掲げる作業を始めたのはその後です。

―どうやって絶壁に国旗を掲げたんですか?

伊藤 国旗にロープをつけて、それを木にくくりつけました。その後、ちゃんと掲げられているかを確認するために、今度はロープを命綱にして、絶壁に宙づりになる形で降りて確認しようとしました。

―え! 絶壁を降りて?

伊藤 上から覗きこもうとすると落ちちゃいますから。結局、それでも最後まで確認はできなかったんです。海上保安庁ジェット機は、まだいいんですけど、ヘリがやっかいなんです。

―飛んでいましたね。

伊藤 ヘリは、ホバリングができるので、人が降りてこられると面倒でしょ。

―ぶんぶん飛んでました(笑)。

伊藤 結局、ふたつの国旗を掲げ終わったのが午前8時前。そこから下山です。実は、同じ船に乗っていた人に「9時までに帰るから、その頃になったら灯台の所に船を寄せてくれ」と船長に伝言を頼んでいました。山を下りている途中で、海上保安庁巡視船サイレンが聞こえてきました。「上陸をやめなさい!」って。

―「軽犯罪法違反に抵触するおそれがありまーす!」と。

伊藤 そこで、上陸していたほかの9人と合流し、また泳いで船まで戻ったんです。

―お話を聞くとすごい体力と精神力だと思うんですが、伊藤さんはいったい何者なんですか?

伊藤 海上自衛隊特殊部隊である特別警備隊の出身です。2007年に2佐で退官して、今は国内外の警察や軍隊で射撃、コンバットダイビング、室内戦闘、作戦立案、戦術などの訓練指導をして、ほそぼそと暮らしてます。


海上自衛隊特別警備隊って、防衛省初の特殊部隊ですよね?

伊藤 ええ。創設から8年間在籍し、先任小隊長をしてました。

―そんな伊藤さんが、上陸翌日には警察に呼ばれていますよね?

伊藤 任意の取り調べを受けました。何度も「任意ですよ」って強調されました。ほかの方は短かったようですが、私は異常に長くて午前11時から12時半まで1時間半の取り調べを受けました。

―ひとりだけ長いですね。

伊藤 上陸までの詳細を実演入りで、ずーっと話していたからです(笑)。刑事さんが「それで、それでって?」って聞くもので、つい熱が入ってね……(笑)。

―上陸することは早い段階から決めていたんですか?

伊藤 タイミングが合えば、という感じですね。そもそも人に協力を頼めない。言った瞬間にバレそうだし(笑)。

―上陸に関して、警察や海上保安庁の人に同情的な雰囲気はあったんですか?

伊藤 私は犯罪の疑いがある被疑者ですから、彼らが同情的な言葉を口に出して言うことはありません。でも、感じますよ、それは。一番つらいのは彼らですからね。私もそちら側の立場にいたので、よ~くわかるんです。

―彼らの気持ちがわかる、と。

伊藤 公務員というのは国家権力の代行者です。海上保安庁にしろ、警察庁にしろ、私がいた自衛隊にしろ、矢面に立つ組織です。だから、彼らは国家に自分の命を使ってもらいたいと思って職業を選択しています。そんな彼らが心の底から望んでいることは国家の意志です。いかなる犠牲を払ってでも「やる」という強い意志を感じたいんです。それさえあれば、彼らは、どんなに危険な任務でも行きます。

前回の中国漁船衝突事件にしても今回の中国人上陸にしても、保安官、警察官はパーフェクトに職務をこなしています。意志なき国家からの命令に従って。淡々と粛々とね。その結果、無罪放免。想像ですが、悔しくて涙を流した方だっていたと思います。だから、高い場所に揚げたかったんです。簡単に行けない場所にどうしても国旗を揚げたかったんです。国旗が断崖絶壁に翻っていれば、彼らの心の呪縛を一瞬で解くと思ったんです。その存在だけで救われるものがあるはずだと思ったんです。

外国製の憲法下で形作られている国家に意志はなくとも、この国に本気で生きた祖先が伝承してきたものは国民の中に流れており、熱く強い意志を持っている。この国の旗にはその力があると思ったんです。国旗の力を借りれば、私でも彼らの情熱や痛みをねぎらい、癒やすことができる。

―今回のミッションの難易度はどれくらいなんでしょうか?

伊藤 そりゃ、簡単なミッションですよ。何しろ上陸した島には「敵」がいませんでしたから(笑)。でも、肉体的には、人生で4番目にきつかったです。今月8日で、48歳ですから……。

(取材・文・撮影/畠山理仁

尖閣諸島の魚釣島。山頂付近の崖にはふたつの日の丸が掲げられている