『谷川健一全歌集』(春風社) 著者:谷川 健一


「明るい府がほしいばかりに珊瑚礁の砂にくるぶし)を埋めているのだ」

『孤文化論』に収められたこの一節に、いきなりを直撃されるようなを受けたのは、大学2年生のときだった。1973年のことである。沖縄そのしばらく前に日本に「返還」され、たちまち日本観光資本が洋博を口実に沖縄に資本投下をしている時期であったが、わたしはまだ現実沖縄を訪れたことがなく、またこの論文集の著者が歌人であることも知らなかった。だがこの「明るい府」という表現はわたしに大きな衝撃を与えた。といえば、ごとに帰る出雲の暗い色の波しか思い浮かべることのなかったわたしにとって、それは深くも魔術的な言葉であるように思われた。

それから30年以上の歳が経過し、わたしはその間にはっきりと自分の南偏の傾向を自覚するようになった。台湾インドネシアタイパラオモロッコ……ヨーロッパなら絶対にイタリア、それもできればナポリ以南。中国もひたすら江南。どうしてそう南にばかり足を向けるのですかと人から尋ねられるたびに、わたしは心のなかで谷川健一のこの言葉を繰り返してきたのである。「明るい府、明るい府……」そしてあるとき、友人である映画作家、高嶺剛の故郷である石垣を訪れ、夕暮れ時の静かな湾の残照に映える面に、何十本ものガジュマルが顔を覗かせているのを初めて見たとき、わたしは直感したのだった、そうか、ここを越えていけば、ひょっとしたら本当に「明るい府」があるのかもしれないと。

最近になって刊行された『谷川健一全歌集』を読んでいて、わたしは次のような短歌に気を取られた。

 潮引きしあとの礁(はなぜ)の夕あかりの作りしにて死なむ
 環礁に夕陽落ちたりかがやくは子安はなびらたから

この2首はまさにわたしを恍惚とさせた。というのも長い間わたし呪文のように魅惑してきた「明るい府」が、まさにここに的緊をともなって実現されていたからである。

わたし闊にも「礁」という言葉があることをしらなかった。美しい表現である。引き潮の後の潮溜りに小さなが泳いでいたり、色鮮やかなが微かに揺れていて、消えゆこうとする陽に照らされている。潮の干満のおかげでゴロゴロと音がする。ちなみに吉増剛造もまた奄美から与論までを伝いに渡りながら、この音に魅せられて『ごろごろ』という長編を執筆した。もう1世紀もすれば、地球温暖化自然破壊が進み、地上の珊瑚礁のほとんどが破壊されてしまうかもしれない。そうした話を聞いた直後だけに、この2首の壮絶な美しさは、わたしには格別のように感じられた。

谷川健一は別のところで切支丹文書のひとつである『地始之事』に触れ、マリアがルソンに住んでいて、悪魔の誘惑を拒んだとき、が南奇蹟を降らしたという記述に注している。彼は畜小屋のマリアと幼子に温かい息を吹きかけて助けたというくだりの素らしさを、賛美してやまない。生涯を通して南という方角に魅惑され、しかもカトリックの信仰を深く体験したこの思索にとって、それは論理的にも生理的にも納得のいくことである。明るい府とは明るい楽土でもあるからだ。もっとも新しい氏の歌のひとつを、ここに引くことにしよう。

 何といふ死のまぶしさよの辺の酔木のは陽にけぶりゐて

【初出メディア
報 第六巻

【書誌情報

谷川健一全歌集

著者:谷川 健一
出版社:
装丁:単行本(333ページ
ISBN4861101042
谷川健一全歌集 / 谷川 健一
「明るい冥府」、わたしにとって、それは深くも魔術的な言葉であるように思われた