2018年上半期、文オンラインで反の大きかった記事ベスト5を発表します。皇室部門の第4位は、こちら!(初開日:2018年3月30日)。

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結婚延期」を決断した篠宮の長女・眞子さま小室さん。2人の結婚については昨年9月3日天皇が「裁可」(=許可)されたと宮内庁が発表している。だが、過去には天皇許可された皇族の婚約や結婚をめぐり、複数の“事件”が起きているという。神戸女学院大の河西秀哉准教授が、皇族の結婚天皇の「裁可」との関係について、めて論考する。

「どこかから圧がかかったようにしか見えない」

 秋篠宮眞子内親王と小室さんの「結婚延期」が報道されたとき、政治思想史学者の原武史氏はTwitterで、「当事者が体的に決めたのではなく、どこかから圧がかかったようにしか見えない。大正期の宮中某重大事件を思い出させる」とつぶやいた。私も「宮中某重大事件」を想起した。この事件は、大正期に、裕仁皇太子(後の昭和天皇)と久邇宮良子(くにのみや・ながこ)女王との婚約をめぐって元老の山県有がそれに疑義を唱えたものの、最終的には天皇許可を根拠に婚約が遂行された出来事である。

 私は、もう一つの事件も思い出した。「宮中某重大事件」の直後に起こった「久邇宮婚約破棄事件」である。こちらは、天皇許可があったにもかかわらず、当事者である久邇宮融(あさあきら)王の意思が尊重され、婚約は破棄された。同じ許可があったにもかかわらず、一方は婚約遂行、一方は婚約破棄という結末を迎えた。 眞子内親王小室さんの婚約内定にも、天皇の「裁可」=許可があった。では、今回はどちらの結論に至るのだろうか? 

 この「裁可」とは、先に私が「眞子さまが小室圭さんと自由に結婚できない3つの理由」においても書いたことであるが、もう一度考えておきたい。「裁可」は、辞書的に言えば「臣下が持ってきた議案などを君天皇)が裁決し、判断すること」である。大日本帝国憲法第1章第6条にも規定されている。戦前大日本帝国憲法では、天皇の「元首」であり、「統治権ヲ総攬」する立場にあった。そのため、議会で審議された法案や予算案を裁可し、それによって法律などは成立していた。

 つまり、の方向性を決める重要な政策決定事項は、形式上でも天皇による裁可がなければ効を持たなかった。それだけ裁可には重みが存在した。そして、皇族の結婚は旧皇室典範第40条に「皇族ノ婚ハ勅許ニ由ル」とあるように、天皇許可が必要であった。

「一度天皇許可を経た婚約を破棄してはいけない」

 では、それが約100年前の「宮中某重大事件」とどのように関係するのか。1919大正8)年6月宮内裕仁皇太子の妃に久邇宮邦(くによし)王の長女・良子女王(後の香皇后)が内定したと発表する。ところが、良子女王方の実家島津では色覚異常の遺伝子が受け継がれており、良子女王の子孫にも遺伝する可性があることがわかった。これを知った元老の山県有は、宮内大臣に事態の収拾にあたらせようとする。これ以後の出来事を「宮中某重大事件」と言う。 その後、政府側は久邇宮から自発的に婚約辞退をするように働きかけを行っていく。

 ところが、父親である邦王はこの後、辞退はしない意思を固め、政府側の動きに対して右翼を利用して反撃に出た。彼らは、「一度天皇許可を経た婚約は破棄してはいけない」旨のを繰り返した。また山県有の宮中における専横を強調し、そうした問題を世間に表することでメディアをも味方に付けようとした。 結局、批判を浴びた政府側の敗北に終わり、1921年2月裕仁皇太子良子女王の婚約は予定通り遂行されることが発表された(1924年1月結婚)。

 山県有は宮中での勢を失い、邦王は婚約辞退を迫られたにもかかわらずそれに抵抗したことで、世間から同情を集めて権威を高めた。「宮中某重大事件」で邦王は、天皇許可の「元首」の決定であり、一度下った許可は覆せないというロジックのもと、天皇許可を利用することによって裕仁皇太子と長女の良子女王結婚を成し遂げさせようとしたのである。 

天皇許可を受けた後に、婚約破棄を望んだ皇族がいた

 ところが邦王は「トリックスター」のごとく、逆の事件を起こす。邦王の長男である融(あさあきら)王は、旧姫路伯爵酒井菊子と1917年に婚約していた。これにも大正天皇からの許可があった。ところが、融王は次第に菊子のことが気に入らなくなる。邦王は息子の意思を受け、婚約破棄に向けて動き出した。しかし、邦王は、天皇許可があることをにして裕仁皇太子良子女王の婚約が予定通り遂行されることを1921年に勝ち取っている。今度は、天皇許可があるにもかかわらず息子の婚約を破棄しようと動いた。

 このように逆のことをすれば、皇太子の婚約・結婚の根拠もなくなってしまう。それゆえ、裕仁皇太子良子女王結婚が1924年に成就するまでは、こっそりと融王の婚約破棄問題を伏せておこうとした。婚約破棄をすれば非難を浴びるであろうことは重々承知していたようである。宮中はこれに対し邦王の説得を試みた。彼の行動を全く理不尽なものとして受け取ったのである。しかし邦王は頑としてそれに応じなかった。 

最終的には、女性側が婚約辞退を申し出た

 最終的には宮中の仲介によって、酒井側から婚約辞退を申し出ることで事態は進展する。ただし、宮中は「宮中某重大事件」に続きまたもや問題を起こした邦王をこのままにしておくこともしなかった。摂政に就任していた裕仁皇太子から旧皇室典範第35条と第36条に定められていた皇族監督権の行使による訓処分が邦王に言い渡された。つまり、義理の息子から処分が行われたのである。天皇許可と言っても、基本的には下から上げてきたものを天皇が認める形式だったが、その行為には相当の重みがあったと言えるだろう。だからこそ、それを視して婚約破棄をした邦王に“ペナルティ”が科されたのである。

戦後皇室で「裁可」は「の中のルールを決める」ものに

 ひるがえって現代の眞子内親王小室さんの婚約をめぐる天皇の「裁可」=許可には、どれほどの重い意味があるのかを考えてみたい。そもそも日本国憲法に「裁可」という言葉は出てこない。戦後天皇制において「裁可」は「の中のルールを決めるとき」に使われるものとして、性質を変えて継続してきたと思われる。

 戦後日本国憲法に変わり、天皇は「徴」となった。政に関与しなくなり、裁可も必要なくなったはずである。しかし、戦後はおそらく皇室内の政的な意味で継続してきた。例えば、昭和天皇三女である孝宮和子(たかのみや・かずこ)と元公爵の嫡男ではあるが日本交通社に勤務するサラリーマン鷹司通(たかつかさ・としみち)との婚約が1950年に発表され、翌年には、四女の順宮厚子(よりのみや・あつこ)と旧岡山侯爵池田政との婚約も発表されている。 

 そして、どちらの結婚にも昭和天皇許可が存在したはずである。しかし、管見の限りでは、メディアにそういった言葉は登場していない。天皇許可したということを知らしめた場合、戦前との連続性が人々に想起されてしまう。敗戦後天皇制が変化したことを強調することで、天皇制そのものを存続させることに成功したのであり、連続性を匂わせる言葉は避けられたのではないか。それゆえ、報道されなかった。

眞子さま結婚相手の人選に、宮内庁が動いた様子はない

 眞子内親王結婚相手の人選にあたり、宮内庁が動いた様子はない。小室さんとの「自由恋愛」ゆえの婚約という形であった。今回、眞子内親王の婚約内定時報道で、天皇が2人の結婚を認める「裁可」をしたことが私たちに伝えられたというのは、戦後直後のそういった心配が消え去った結果、むしろ戦前から続く慣行が表出してしまったという見方ができるだろう。

眞子さまご自身がられた「お気持ち」文書がヒント

 眞子内親王小室さんの結婚の行く末について考えるとき、結婚延期に際して眞子内親王自身がったという「お気持ち」の文書がヒントになる。予期せぬ報道が出たこと、準備不足であったことを結婚延期の理由として挙げて、文書全体から「結婚の意思に変わりはない」ことをにじませたのは、天皇による裁可の重みを認識していたからであろうか。 

 ただし、結婚延期後の世論の流れからは、天皇許可に婚約を必ず実行しなければならないという動きがあった「宮中某重大事件」のときとも、それを守らなかった当事者を処分するという事態まで起きた「久邇宮婚約破棄事件」のときとも、その重みが異なっているようにも見える。眞子内親王ケースでは、世間からの逆があまりに強く、場合によっては小室さんとの破談もあり得るという見方すらある。

明仁天皇による裁可を重く受け止めれば

 このように天皇の「裁可」=許可は、時として利用されながら、皇族の婚約や結婚を大きく左右してきた歴史背景がある。裁可をどう捉えるか、時の政権や宮内庁の見識が問われているとも言える。明仁天皇による裁可を重く受け止めれば、今回もその重みから婚約破棄までには至らないと私は思うのだが、果たしてどのような結末を迎えるのだろうか。

河西 秀哉)

2017年12月、眞子さまの勤務先「インターメディアテク」で、眞子さまから特別展示『植物画の黄金時代――英国キュー王立植物園の精華から』の説明を聞かれる天皇皇后両陛下