『胃袋の近代―食と人びとの日常史―』(名古屋大学出版会) 著者:湯澤 規子


職のたんなるネガではない胃袋の問題

近代化は、こと経済にかんしては労働者の移動に集約される。農村で田畑を長子が相続する制度が確固としていた明治から大正にかけ、長男以外すなわち次男以下や女子は多くが「職」をめて都市した。神戸横浜のような港町なら危険な仲仕(おきなかし)が大量に必要となり、工場が増えてくると職工が憧れの的となった。女性も「女工」として製糸場で雇用された。対照的に近世まで人は農地にり付いていた。移動したのはもっぱら商品で、などは船(かいせん)に乗せられ大阪・堂市場に向けて周航した。

この違いは都市が「職」を提供するか否かによるが、本書はここで見逃されていた問いにを当てる。移動した人びとは何を食べたのか、だ。これは興味深い論点で、「食」は日に二、三度の必要事である。故郷の農村であれば野菜は自給でき、を手に入れたければ行商が物々交換の仲介をした(愛媛では「かへこと」と呼ばれた)。都会が提供する職からは現が得られるが、賃の多寡や職の有さえも気に左右される。都会で手持ちの銭に事欠けば、食にはありつけなくなってしまう。

これまで経済学社会学・歴史学は「職」から近代化を論じた。しかし背後にある「食」に理が生じると、進歩は止まる。著者は小説やルポルタージュ、膨大な調資料とみずからの調を元に、賃労働者にとっての「食」がいかに賄われたかを浮き彫りにしている。とりわけ引用が鮮やかだ。

柳田男の『明治大正史世相篇』によれば、近世にも街道沿いには煮売屋という飲食商売があり、「一飯」は死者の元に供えられるものとして不吉とされた。ところが明治期以降、煮売屋は「一飯屋」に姿を変え、「どんぶりという器が飯椀(めしわん)に代わって、どん・どん・親子どんなどの、奇抜な名称が全的になったのも、すべてこの時代の新現」であった。

美子の『放浪記』には、大正期の一飯屋の寒々しい情が描かれている。「ドロドロに汚れた労働者が(か)け込むように這入(はい)って来て、『姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。』 大(い)って正直に立っている」。の筆は「私」にも向かう。「人の舌に触れた、はげちょろけの箸を二本抜いて、それで丼飯を食べる。まるでのような姿だ」

データも厳密である。大正七年の大阪市の調によれば、下の一飯屋は一〇坪でも較的大規模で四五八戸、使用人・営業者は一九○○人に上り、一日の来客数は延べで五万一六〇〇人(一戸均で一一三人)、当時の大阪市の全人口の三分三厘に及ぶ。典的なメニューは温かい朝鮮産のに皿小鉢の野菜というおかず、それに類である。都・大阪らしく、水上にも一飯屋に当たる「くらわんか船」が多く見られたという。

著者の考察は民営の外食に止(とど)まらない。大正七年の価高騰がもたらした暴動(米騒動)以降、営食堂や市場が設置され、営利的だとときに値段が変動する「食」や生活必需品を低廉に提供した。一飯屋ならばもが通りすがりの他人としてチップを要されたりに勧誘されたりするところを、それらを排するのみならず宿泊所・職業紹介所・人事相談所をも併設した。人間関係を取り結ぶ場としても機したというのである。

そうした営食堂は東京では大正末にピークを迎えそれ以降は衰退するが、著者はそこに芽生えた「私」でも「」でもない「共」の意識に注する。それが現実になったのが「共同炊事」で、昭和十年にかけて広まっていく。職工は食事の質量に関心が深く、差があれば工場間を移動してしまう。それを防ぐために食の準化とレベルアップを図る共同炊事に複数の工場が加盟したのだが、著者はそこに低賃労働の安定確保をえた、地域における社会事業を見出(みいだ)す。

暉峻義等や大原三郎らは労働を効率においてのみ管理しようとするテーラーシステムの考え方に反発し、人間尊重を軸とする労務管理を打ち立てようと試みて、実践として食を栄養や衛生の観点から見直したというのである。現在松山市で受け継がれる「労研饅頭(まんとう)」は、疲労回復に必要な栄養を暉峻が研究し、京阪神から拡(ひろ)がったものである。

こうした食の科学化・合理化に暗い影が射(さ)したのも事実である。技術革新漬け物にめざましく、大量生産化と味の均一化を実現した。練馬大根や宮重大根に収まる長さ・太さに品質良され、沢庵たくあん)(大阪では香々という)が大量に生産されて、戦時下には軍隊食の柱となった。

生活に属する「食」は生産における「職」にともなうがたんなるネガではなく、独自の意義を持つのである。かつて漬け物を食した女工の尿(ふんにょう)は肥料として循環利用されたが、化学肥料の登場とともに社会の不要物となった。それが昨今では有機肥料として見直されている。本書は経済を循環からとらえることによって、文化や自然社会との接点を再考する手がかりを与えている。

【初出メディア
毎日新聞 2018年8月5日

【書誌情報

胃袋の近代―食と人びとの日常史―

著者:湯澤 規子
出版社:名古屋大学出版会
装丁:単行本(354ページ
発売日:2018-06-26
ISBN481580916X
胃袋の近代―食と人びとの日常史― / 湯澤 規子
人びとは何をどのように食べて、空腹を満たしてきたのか。外食の営みを活写