戦国時代の主役は誰かと聞かれれば、おそらく多くの人が織田信長の名前を挙げることでしょう。そして、その信長を最も苦しめた存在は何かとなると、歴史に比較的詳しい人ならば、武田信玄上杉謙信といった有名どころの武将を押し退けて「一向一揆」の名を挙げるのではないでしょうか。

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 信長と一向一揆の抗争は10年以上も続き、信長は弟を含む多くの重臣を失いながらも、決定的な勝利で屈服させることはできませんでした。その決着も、信長に有利な条件とはいえ、和睦という形でついています。

 事実上、天下を取りつつあった信長を最も苦しめたのが一向一揆です。ところが、多くの講談や解説にその名が登場するものの、一向一揆自体を主題とした解説や評論はその歴史的影響力に比べ少ないと言っていいでしょう。

 そこで今回から3回にわたって、戦国時代における一向一揆の実像について解説していきたいと思います。初回となる今回は、戦国時代初期に浄土真宗本願寺派勢力を一気に拡大させた、中興の祖とも言うべき「蓮如」の活動を追っていきます。

一向一揆とはそもそも何か?

 まず、一向一揆とはそもそも何なのかをはっきりさせておきましょう。

 大分類としては、一向一揆は「土一揆」に含まれます。土一揆とは、農民層を中心とした被支配階層集団が支配階層に対し、年貢権限や借金を帳消しにする「徳政令」などを武力蜂起を含む手段で要求する活動を指します。

 ただ、一向一揆が他の土一揆と大きく異なる点は、土一揆を起こす被支配階層が「一向宗」の僧侶に率いられていたという点です。一向宗とは、親鸞を開祖とする浄土真宗の一派である「本願寺派」のことを指しています。

 ここで強調しておきたいのは、一向宗とは浄土真宗全体を指すのではなく、浄土真宗の本願寺派のみを指している点です。後述しますが、同じ浄土真宗の中でも宗派間で対立があり、実際に信長の一向一揆討伐軍には浄土真宗の別の宗派も援軍として加わっていました。あくまでも一向一揆は、当時の「浄土真宗本願寺派」による軍事勢力とその行動を呼び表す言葉なのです。

 以上を踏まえた上で、戦国時代初期に本願寺派の勢力を躍進させた蓮如について追っていきましょう。

蓮如が本願寺派を急拡大させられた理由

 本願寺派第8代法主の蓮如は、1415年に京都に生まれました。本願寺派の法主は代々、開祖である親鸞の血を引く子孫が継ぐこととなっているのですが、当時の本願寺は京都・青蓮院の末寺に過ぎず、本寺も荒れ放題で参拝者も呆れて帰ってしまうほどのありさまでした。

 そのような困難な時期に法主となった蓮如ですが、彼が法主に就任するや信徒数が急増し、本願寺派は勢力を急速に拡大していきます。

 この急拡大の背景に何があったのかというと、蓮如自身のカリスマ性もさることながら、ビッグダディも驚くほどに蓮如が子沢山だったという点が大きいでしょう。蓮如はその生涯においてなんと男子13人、女子14人の合計27人もの子供をもうけています。夫人も「腹の空く間もなく」と評されるほど出産を繰り返すため、早逝することが多く、最終的には5人の女性を娶(めと)っています。この圧倒的な一族の人数が本願寺躍進の礎となります。

 蓮如は、子供が男子の場合は主に他の寺院へ養子として送り、成人した暁にはその寺院を本願寺系列の末寺として組み込んでいきました。一方、女子の場合は主に幕閣関係者と縁組し、これにより室町幕府内で本願寺支援者を急拡大させ、幕府の権威を得つつその支援を生かして勢力拡大に努めました。

延暦寺の弾圧を受け加賀へ

 こうして衰退していた本願寺を一挙に拡大させることに成功させた蓮如でしたが、急な勢力拡大を疎ましく思ったのが比叡山延暦寺でした。

 本願寺の勢力拡大ぶりに危機感を持った延暦寺1465年、蓮如と本願寺一派を「仏敵」と認定し、僧兵を繰り出して現在の京都市東山区付近にあった大谷本願寺を破却するなど弾圧を加え、蓮如らは近江へ一時避難する羽目となりました。

 その後、延暦寺と本願寺は和睦を行い、和睦の条件として蓮如は法主の座を降りることになります。法主を引き継いだのは、まだ幼少であった五男の実如です(長男の順如は、幕府内に多くの人脈を持っていたことを警戒され、後を継げませんでした)。

 ただ、蓮如はこの引退を機に、新たな布教地を目指して京都から加賀(現石川県)へと遷(うつ)り、この地で信徒を拡大させることとなります。この延暦寺による弾圧がなければ蓮如は加賀には向かわず、加賀がその後「百姓の持ちたる国」と呼ばれることはなかったかもしれません。

守護大名を自害させた「加賀一向一揆」

 加賀でも順調に信徒を拡大させていた蓮如たちでしたが、加賀の守護大名である富樫家のお家騒動に巻き込まれることとなります。

 富樫家のお家騒動には、1467年に発生した「応仁の乱」が大きく影響していました。京都の東軍を支持する兄の富樫政親と、西軍を支持する弟の富樫幸千代の間で、加賀の支配を巡って1474年に抗争が勃発したのです。その際、政親は本願寺に支援を求めます、蓮如は、対立していた浄土真宗高田派が幸千代側についていたことから、支援の要請を快諾します。本願寺の支援もあり、政親は幸千代を敗死せしめ、加賀の実権を握ります。

 しかし、その14年後の1488年、今度は自らが本願寺に追い詰められることとなります。

 加賀の支配を確立させた政親でしたが、次第に本願寺一派の強大な力を恐れるようになり、弾圧を加え始めます。また、政親の支配手法に対し、加賀の国人(その領内の住民たち)勢力も反発し、本願寺門徒と国人が結びついて一向一揆を起こします。政親は高尾城に追い詰められ、自害することとなりました(加賀一向一揆長享の乱」)。

 国人らは、政親の後継として政親の大叔父に当たる富樫泰高を傀儡の守護に立てます。しかし京都の幕府は、自らが任命した守護を国人らが自害に追い込んだことに激怒し、既に加賀を離れていた蓮如を呼びつけ、加賀の信徒を破門するように迫りました。しかし蓮如は、「既に加賀の地を離れており、本願寺が一揆を扇動したわけではない」と弁明し、また幕閣の細川政元の弁護もあって、加賀の信徒に「御叱り状」を出すことで落着させています。

 東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、浄土真宗高田派との抗争を兼ねていた1474年の富樫家のお家騒動の際とは違い、長享の乱では蓮如が積極的に一揆を扇動した痕跡はないようです。とはいえ、加賀の支配権を握る国人指導者への本願寺の影響力が高かったことは間違いありません。加賀一向一揆は、守護に反乱を起こした国人勢力が本願寺宗徒であったと見るのが実態に近いようです。その後の幕府との関わりの中で、本願寺は次第に加賀の支配権を確立させていきます。

 次回は、本願寺派勢力が実質的に戦国大名となり、信長と抗争を繰り広げていく様子を見ていきます。

参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行

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