歴史研究に、史料は不可欠です。ですが史料というものは、本質的に勝者による記録です。敗者の記録は、廃棄されてしまうことも多く、そうなると人の目に触れることはありません。

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 したがって、実は史料にあまり信用が置けない場合もあるのです。

 今回取り上げるフェニキア人は、おそらく一般に知られている以上に歴史上重要な役割を果たした民族です。しかし彼らは、古代ローマとの戦いに負けてしまい、その史料はほとんど燃やされてしまいました。

 そのため、勝者であるローマの偉大さばかりが強調され過ぎ、フェニキア人の重要性が軽んじられてきました。

 そこで今回は、フェニキア人が歴史上どれほど重要であったのかを見ていきたいと思います。

フェニキア人とはどういう民族だったのか

 一般に、「フェニキア人」は、エーゲ文明に属するクレタ文明(前2000〜前1400年頃)とミケーネ文明(前1600〜前1200年頃)が後退した後に、地中海交易で栄えた民とされます。

 彼らについてはあまり多くのことは分かっていませんが、フェニキア人がセム系の語族に属し、海上交易に従事していた民であったことは確かです。

 フェニキア人は、ユーフラテス川上流に定住し内陸交易を担ったアラム人とよく対比されます。アラム人がラクダによってシリア砂漠などで隊商を組んで交易をしたのに対し、フェニキア人は海上交易で活躍しました。

 さらに、アラム人はアラム文字を作り、それがヘブライ文字アラビア文字シリア文字、ソグド文字、ウイグル文字の母体となっていきました。それに対してフェニキア人は、まだ象形性が残っていた古代アルファベットを改良し、線状文字にし、今日まで続くアルファベットの元を作ったとされます。

 ちなみに、フランス古代エジプト学の研究者・シャンポリオン(1790〜1832年)が、後代にロゼッタ石からエジプトの神聖文字(ヒエログリフ)を解読しましたが、それはエジプトの文字がアルファベットの祖先だからこそ可能になったのです。

 このように、アムル人やフェニキア人が文字を発明・改良したのは、おそらく交易のためであったと考えられます。交易というのは、単に言葉を交わすだけで完結するわけではありません。使用言語の違うさまざまな民族と意思を通じ合わせなければならなりません。そのために、文字が必要だったのでしょう。

 フェニキア人が使用していたアルファベットは、現在のように26文字ではなく、27文字から30文字あったそうです。しかも、左から右に書くだけではなく、右から左へ、左から右へ、あるいは上から下に書かれたと言われています。

 彼らが改良したアルファベットは、ヨーロッパ各地で使用されるようになりました。それは、彼らが交易のためにさまざまな地域に移動する人々であったからでした。言うなれば、フェニキア人は「ヨーロッパ文明の父」なのです。

 フェニキア人の根拠地は、東地中海南岸、現在のレバノンにありました。彼らはそこで生長していたレバノン杉を使って、地中海の交易活動に進出したのです。

 レバノン杉は、高さが40メートルほどにまで生育するのですが、現在ではほんのわずかしか残っていません。それは、フェニキア人をはじめとする交易に従事する人たちが船材や建材にするため伐採したからです。

 耐久性があり香がよいため、高級木材として珍重されたレバノン杉は、神殿の内装材にも使われたようです。ちなみに、現在のレバノンの国旗の中央に描かれている樹木のシルエットもこのレバノン杉。それだけこの地の人々にとって誇るべき存在なのです。

 さらにフェニキア人の特産品として、赤紫色の染料がありました。この染料で染めた織物も有力な商品だったのです。他にも、高度な技術を身につけた職人多作り出す象牙や貴金属、ガラス細工もありました。地中海世界各地の貴族階級に属する人々にとって、フェニキア人がもたらす品物は垂涎の的だったのです。

 この強力な“商材”を武器に、フェニキア人は貿易と海運で地中海を席巻しました。

【地図1】に、フェニキア人の交易路を示しました。彼らの交易ネットワークは全地中海に及んでいます。古代ローマのそれと比較しても、各段に広いものです。フェニキア人ほど広大な取引網をもつ民族は、この当時のヨーロッパには見当たりませんでした。

 われわれは、「古代地中海世界はローマ人によって形成された」と思い込みがちです。

 しかし、古代地中海世界は、むしろフェニキア人によって築かれたと考えるほうが妥当です。彼らは地中海の物流を完全に支配していたのです。

 フェニキア人は、前12世紀から地中海の物流をほぼ独占するようになり、いくつもの植民市を建設するようになります。その植民市を中継点として、地中海の物流は徐々に統一されていきます。このフェニキア人が開拓した航路は、ずっと後になってローマ人やムスリム商人、イタリア商人、オランダ商人たちも利用することになりますが、当初はフェニキア人だけが知る「秘密のルート」でした。

 フェニキア人は、古代ヨーロッパ世界で最高の航海術を誇っていました。

 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、エジプト王のネコ2世(前606〜前583年)の命を受けたフェニキア人が、紅海から西回りで、3年かけてアフリカを周回とされています。

 また前450年頃、カルタゴのハンノという航海者は、アフリカ西岸まで航海したという記録が残されているのです。

 つまり他のヨーロッパ人が15世紀の大航海時代に成し遂げたことを、フェニキア人はすでに前6世紀に遂行していたのです。

ティルスの役割

 フェニキア人が築いた植民市は次第に都市国家へと成長していきます。中でも有名なのが、シドンとティルスです。ここでは、そのうちティルスについてお話ししましょう。

 ティルスは、やはり現在のレバノン地中海沿いに位置する都市でした。ティルスでは、銀・金・錫・鉛・奴隷・青銅商品馬・軍馬・ラバ・象牙・小麦・きび・蜜・油・ぶどう酒・羊毛・布地・羊・山羊・香料・宝石・黄金などの商品が取り引きされていました。これらの商品は、ティルスに輸入され、そして再輸出されたのです。ティルスは、東地中海最大の交易拠点でした。

 この時期、ティルスのフェニキア人はアケメネス朝ペルシアと結び、その保護を受けながら勢力を伸ばしました。多くの商品が、ティルスを経由して、フェニキア人の船で行き来したのです。

 ティルスは地中海沿岸にいくつもの植民市を築いていきます。その中で最も重要なのが、現在のチュニジア共和国にあったカルタゴです。カルタゴは前820年頃ないし前814年頃に建国されたといわれますが、前6世紀には西地中海における交易の中心地へと成長しました。

カルタゴの隆盛

 カルタゴが建設されたのは、現在のチュニジアの首都・チュニスに近い場所でした。地中海に面したこの地は、他のフェニキア人の植民市と同様、水深が比較的浅く、簡単に錨を下ろすことができるので、船を港で停泊させるのが容易でした。

 地中海のほぼ中央に位置するカルタゴは、シチリア島にも近く、北アフリカからイタリアに至る地中海の南北路を押さえることができるという利点がありました。カルタゴ地中海の交易ネットワークのちょうど中心に位置していたので、母市・ティルスがアレクサンドロス大王の侵攻によって衰退してからは、地中海交易の中心地となり、大いに隆盛を極めました。

 当時カルタゴは、シチリア島の西半分を支配していました。そのことにより、イタリア半島を統一して西地中海の新興勢力として台頭してきたローマと、西地中海の覇権をめぐって直接対決することになってしまいます。これがポエニ戦争(前264〜前146年)です。これは、帝国主義的に領土を拡大していた2国間の避けられない争いでした。

 第1次ポエニ戦争で、カルタゴを破ったローマは、初めてイタリア半島外の領土となるシチリアを獲得します(前241年)。

 一方、シチリアを失ったカルタゴは、多額の賠償金の支払い義務まで負わされます。苦難はそれだけではありませんでした。カルタゴが支配していたサルデーニャ島の守備を担っていた傭兵部隊が反乱を起こしたのを機に、ローマによってサルデーニャ島、さらにはコルシカ島までまんまと奪われてしまったのです。カルタゴは海上交易の拠点を失ってしまいました。国家の死活問題でした。

 カルタゴローマに対する憎悪の念を強く持つようになりました。そうした中、1つの大きな動きがありました。第1次ポエニ戦争に参加した将軍・ハミルカル・バルカが、遠征軍を率いてイベリア半島へ進出します。イベリア半島の鉱物資源はカルタゴにとって重要な交易品でした。そこまでローマに奪われたくないという思いもあったのかも知れません。

 その後、フェニキア人はイベリア半島で急激に勢力を伸ばしていきます。カルタヘナ(カルタゴノヴァ)、アルメリアバレンシアバルセロナといった都市は、カルタゴのフェニキア人が築いたものなのです。

 カルタゴローマの争いは続きました。前218年には、第2次ポエニ戦争が始まります。

 カルタゴ軍を率いたのは、イベリア半島に進出したハミルカル・バルカの息・ハンニバルでした。幼いころ、父に連れられて行った神殿で「打倒ローマ」を誓ったという逸話が残っていますが、その誓いを実行に移したわけです。

 現代においても戦術家として非常に名高いハンニバルは、ローマに奇襲を加えます。カルタゴノヴァを出発したハンニバルの軍勢は、ピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、そしてアルプス山脈を越えてローマに向かったのです。よく知られた「ハンニバルのアルプス越え」です。アルプス越えでは雪崩に襲われるなど、決死の行軍となります。その際、象37頭も引き連れていったそうですから、前代未聞、空前絶後の大作戦でした。

 およそ5万人の軍勢だったカルタゴ軍は、5か月かけてイタリア半島に辿り着いた時には半減していたと言いますから、その過酷さが偲ばれます。

 この第2次ポエニ戦争の最大の決戦は前216年のことでした。これまた歴史に名高いカンネーの戦い(カンナエの戦い)です。ガリア人らの援軍を併せて5万人のカルタゴ軍は、8万人ほどのローマ軍と対峙します。

 多勢に無勢でしたが、将軍・ハンニバルによって鼓舞された兵士は勇敢でした。ハンニバルによって敷かれた陣形もローマ軍を大いに翻弄しました。

 終わってみれば8万人のローマ軍は7万人もの死者を出したと言われています。対するカルタゴ軍の死者は5700人。カルタゴ軍の圧勝でした。

 しかしカルタゴは、その勝利をうまく生かすことが出来ませんでした。その後、ローマの将軍スキピオによって形成は逆転。和平を模索し始めた本国・カルタゴハンニバルに帰還命令を出します。憤慨しつつもカルタゴに帰還したハンニバルでしたが、そこにスキピオ率いるローマ軍が攻め入ってきます。ハンニバル軍とスキピオ軍は、カルタゴの近郊ザマで対決、カルタゴは再び敗北してしまうのでした(前201年)。

 この敗戦でカルタゴは再び大きなダメージを受けました。多数の戦死者や捕虜を出しただけではなく、またもや多額の賠償金を課せられ、軍備の大幅な削減も飲まされたのでした。

 ところがカルタゴは逞しかったのです。

 第2次ポエニ戦争後、任期1年の最高政務官になったハンニバルは、貴族の権力を大幅に削って民主化を進め、財政改革にも手を付けます。これらの改革が奏功し、カルタゴは徐々に繁栄を取り戻していくのです。

 もっともハンニバル自身は、1年後に最高政務官の任期が終わると、反対派に追い詰められ、ついにはセレウコス朝シリアに亡命することを余儀なくされてしまいます。

 一方で、カルタゴの再興を目の当たりにしたローマは、猛烈に警戒心を強めます。さらに当時のローマ支配層にとっては、どれだけ軍事的成果を上げたかが極めて重要な問題になっていました。軍事的な成果が、国内での地位の向上に結び付いていたからです。

 そうした情勢の中、カルタゴローマにとって格好の標的になったのです。

 カルタゴの殲滅を狙ったローマは、ついに前149年には第3次ポエニ戦争を仕掛け、カルタゴを滅ぼしにかかります。ローマ軍は、文字通りカルタゴ市を破壊し尽くしました。カルタゴのフェニキア人は殺されるか奴隷になるかしか道はありませんでした。ローマ軍は、カルタゴが再興することがないよう、その地に大量の塩を撒いたと言われています。ローマ軍の仕打ちはそれほど苛烈なものでした。

 カルタゴが滅ぶと、交易拠点を失ったほかのフェニキア人の都市国家も急速に衰えていきます。それに代わってローマは、西地中海を支配する大帝国へと成長していくのです。

 一連の戦争で、カルタゴに関する文献史料はあらかた失われました。したがって研究はきわめて困難でありますが、今後、考古学遺跡の発掘で、もっと多くのことがわかるのではないかと期待されています。

フェニキア人の遺産

 人類は、定住することで文明を築きました。その文明は、移動する人々によって各地に伝播しました。その役割を請け負った民族の1つがフェニキア人でした。

 フェニキア人は、ビジネスによってさまざまな地域を結び付け、その文明と文明をつなぎ合わせました。彼らが築いた交易ネットワークは、北海、地中海、紅海、さらにはアフリカ西岸に至る巨大なものです。この広範な地域に、各地の文明を伝え広げていったのですから、その影響力は絶大です。

 これらの地域は、後代にヨーロッパ人とイスラーム教徒によって統治されます。ということは、双方の文明の形成にはフェニキア人の文化も貢献したはずです。

 ローマ人は、カルタゴの街を焼き尽くしました。主要な史料も灰と化しました。そのため、勝者であるローマ中心の歴史のみが後世に伝えられることになってしまったのです。現代の私たちが学んでいる世界史も、その例外ではありません。

 しかし、もしもフェニキア人という「交易民族」の活躍がなければ、地中海世界の結合はもっと違うものになっていたはずですし、イスラーム世界の文化もまた現在とは違ったものになっていたと思われます。

 歴史の彼方に消え去ってしまったフェニキア人ですが、われわれは彼らの果たした役割もっと知り、深く学ぶべきなのです。

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