平成が終わるまで8ヵ月を切った。私も含めて昭和生まれの人たちにとっては、人生2度目の天皇の代替わりということになる。もっとも、昭和の終わりは、平成の終わりとはずいぶん違った。それはもちろん、今回は天皇の存命中に皇太子に譲位することが決まっているのに対し、昭和は天皇の崩御をもって終焉を迎えたからである。

30年前のきょう9月19日は、昭和天皇の容体が夜になって急変した日である、この日から翌日にかけて、多くの国民が昭和の終わりが近いことを実感した。折しもその2日前の9月17日には韓国・ソウルオリンピックが開幕し、10月2日まで熱戦が繰り広げられた。

オリンピックと同時進行だった天皇の容体悪化
昭和天皇の容体が急変して初めて迎えた土曜、9月24日にはソウルオリンピックの陸上男子100メートルの決勝が行われ、カナダベン・ジョンソンと、アメリカのカール・ルイスの対決に注目が集まった。結果は、ジョンソンがルイスを押さえて1位になったのだが、のちに薬物使用が発覚し金メダルを剥奪される。

この“世紀のレース”は日本テレビが独占中継した。しかし、天皇の病状しだいでは、放送を中断してニュースを入れることも辞さないという決定があらかじめ決まっていた。このときのテレビ報道を当事者たちが書き記した『昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか』(日本テレビ報道局天皇取材班・著、新潮文庫)によれば、それは報道局長とスポーツ局長による激しい議論の末の決定だったという。

ちょうどこの日、天皇は最初の危機に陥り、「天皇陛下重体」の号外も出た。結局、午後1時(日本時間)からの100メートル決勝の中継は中断されることはなかったが、この前後、日本テレビでは正午すぎからのオリンピック陸上競技の放送のあいだに7回、計30分中断して天皇の容体が報じられ、さらに午後5時10分からは特別番組が編成された。

他局でも『オレたちひょうきん族』『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などのお笑い番組、プロレス番組が軒並み中止されている。自動車メーカーのCMから井上陽水の「お元気ですか〜」の声が消え、菓子メーカーの「ついにその日がやってきました」というCMも中止されたが、いまにして思えば過剰反応というしかない。

9月19日以来、マスコミ各社による報道は過熱した。連日、天皇の体温や血圧などが事細かに報じられ(報道番組以外の番組でも随時テロップで伝えられた)、人々からは疑問の声も上がる。当時について、日本テレビの取材班は前出の著書のなかで次のように省みている。

《公人の中の公人・天皇は、その極限においてすら常に、「従来どおりであるべき」強さを要求されるのか。酷な話である。守れるのは、肉親や心を許せるわずかな人々だけなのか。ならば、と記者たちは思った。せめてその心情をくんで天皇という一人の人間の体感を感じた取材をしよう。人としての優しさを忘れない報道をしよう。
 しかし、報道する者たちが、単なる心情に流され、公(おおやけ)のシステムに位置づけられた天皇の本質を忘れれば、天皇と天皇制が生んできた歴史の禍福を忘れてしまう。その意味では、醒めた目も持ち続けなければならない。その二律背反のバランスの上に「天皇報道」は成り立っていたのかもしれない》(『昭和最後の日』)

日本社会を覆った自粛ムード
天皇の病気を理由にした自粛ムードも、先述のテレビ番組やCMの放送中止だけでなく、各方面でエスカレートした。政官界では外交・内政の日程が見直され、時の首相・竹下登が、このころ国会で議論されていた消費税導入を訴える“辻立ち”を中止し、外務大臣の宇野宗佑(のちの首相)も国連総会への出席を取りやめた。また、イタリア首相の来日が現状では「受け入れは困難」として延期となっている。

自粛は国民生活にもおよぶ。各地で祭りやイベントが中止され、芸能人の結婚式や披露宴も延期があいついだ。また、多くのタレントを抱える吉本興業9月19日以来の自粛による興行のキャンセルが87件あり、業績を下方修正している。

季節が秋と、祭りやイベントが集中する時期だっただけに、その影響は想像以上に深刻だった。9月29日には、当てにしていたイベントが中止されたために借金返済に行き詰まった露天商夫婦が自殺するという事件も起きている。また11月には、心身障害者が働く全国の共同作業所のうち4割で、仕事がなくなったり、収入が減少したとの調査結果も報告された。これというのも多くの作業所では、秋祭りのバザーなどで手づくりのおもちゃを売って、冬のボーナス資金にあてていたからだ。また、例年なら年末年始を控えて増えるはずの年賀状の印刷の注文や、クリスマス・正月飾り関係の仕事がなくなり、減収を余儀なくされる作業所も少なくなかったという(『昭和最後の日』)。突発的な事態でもっとも重圧がのしかかるのは社会的弱者だということが、これらのケースからはうかがえよう。

国民のあいだで広がる自粛ムードに対しては、10月8日と28日に皇太子(現・天皇)が憂慮の念を示した。今上天皇は、2016年8月に生前退位の意向を示した「お言葉」のなかで、《天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます》と述べたが、これはまさに昭和天皇の闘病中に起こったことを念頭に置いたものだろう。

昭和天皇闘病中に進められた改元の準備
昭和天皇はその後も何度か危機に陥りながらも、11月に入るころには比較的平穏に推移した。しかし、このころにはテレビで好きな相撲や朝ドラを見る気力はすでに失われていた。それでも、9月19日から年をまたいで翌89年1月7日に崩御するまで、じつに111日間も持ちこたえられたのは、幼少のころから規則正しい生活で築き上げられた基礎体力に加え、侍医団5人・看護師8人による大治療団によるところが大きい。

この間、政府内では崩御後のさまざまな手続きについて、天皇の病状を見ながら検討が進められた。当時、内閣官房副長官としてその作業にあたった石原信雄は後年、《年が明けて昭和六十四年の一月七日に崩御されたのですけれども、我々が準備していたシナリオ通り、一つの狂いもなく実行できたんです。それはなんといっても、一一一日間という準備があったということですね》と語っている(御厨貴・渡邉昭夫『首相官邸の決断 内閣官房副長官石原信雄の2600日』中公文庫)。改元の準備が進められたのもこの期間中だった。

改元について戦前の「登極令」では、皇位継承後「直(ただ)ちに」と定められていたため、「大正」「昭和」の元号はいずれも天皇の崩御当日に改元・施行された。これが戦後、1979年に成立した「元号法」では、改元は「直ち」にではなく、皇位継承が「あった場合」となる。それは、天皇の崩御後、「ある程度の時間を置いて」、あるいは「多少の幅を持って」を意味していたはずだった(高橋紘編著『昭和天皇発言録』小学館)。しかし「平成」への改元は、崩御当日でこそなかったものの、あいだを置かず翌日(1989年1月8日)からの施行となった。

次の元号についても、政府は当初、国民生活への影響を考慮して、改元(2019年5月1日)の半年前を目処に公表する方向でいた。しかしその後、19年2月24日今上天皇在位30年記念式典以降とする方向となり、さらに今年5月には改元1ヵ月前の公表を想定して準備を進めることが明示された。公表時期の先送りの理由としては、現天皇と次の天皇の「二重権威」が生じることへの懸念と、改元にともなうシステム改修が想定よりも短期間で対応できることが判明したことがあげられている(「YOMIURI ONLINE」2018年3月31日)。しかし、これに対しては、システム改修にあたるIT業界からは「1ヵ月前の公表は危険」との批判もあり(「FNN.jpプラチナオンライン」2018年5月31日)、また宮内庁幹部からも「(1ヵ月前は)ギリギリのタイミングだ」との意見があがった(「日本経済新聞」2018年5月17日号)。

平成改元にあたっては、施行が急だったために「県民手帳」から元号が消えた県も出た。ここから《政府の強要のおかげで、元号離れはかえって進む》と指摘する向きもある(『昭和天皇発言録』)。今度の改元をめぐっても、カレンダー業界は、昨年6月の段階で、新元号は最低でも1年前に公表されないと対応できないと訴えてきたが、来年のカレンダーにはついにまにあわなかった。

ただでさえ平成は、昭和や西暦とくらべると年号として使われる機会が少なかったが(平成と西暦の年号をとっさに対応させることのできる人が一体どのぐらいいるのか……)、次の元号ははたしてどれぐらい浸透するのか。思えば、平成の30年のあいだには、バブル崩壊以来、経済の停滞が続き、大規模な自然災害も頻発した。これらは元号が変わっても、当分のあいだ続きそうである。となれば、平成が終わったからといって、本当の意味で時代の区切りとなるのかどうか。せめて天皇の代替わりだけは、社会に悪影響をおよばさないまま穏当になされることを祈りたい。
(近藤正高)

日本テレビ報道局天皇取材班『昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか』(新潮文庫)。1987年の昭和天皇の手術から89年1月7日の崩御まで、天皇周辺の動向を追い続けた記者たちによる当時の記録