ライト兄弟の初飛行から十数年で、飛行機は急激な進化を遂げました。背景には第一次世界大戦がありますが、終結まで4年あまり、その初期と末期では大きく姿を変えました。もちろん、担った役割が大きく関係しています。

鋼鉄の戦車より役に立った布張り飛行機

ライト兄弟が世界最初の飛行機の動力飛行に成功したのは1903(明治36)年のことでした。当時はまだ人を乗せて飛ぶのがやっとのことで、どれだけ役に立つのかは未知数でした。

大きな転機となったのが1914(大正3)年から始まった第一次世界大戦です。歴史の教科書ではこの戦争で初めて飛行機や戦車が戦場に登場したと書いてありますが、鋼鉄の塊である戦車と比べても木材と金属の骨組みに布を張り、針金で補強したような機体に非力なエンジンを載せた飛行機は、兵器としてはとても脆弱に見えました。

第一次大戦の地上戦は歩兵が地面に塹壕を掘って立てこもり、大砲や機関銃を撃ち合って塹壕を奪い合うというもので、戦車も敵の弾を跳ね返して突撃できる塹壕突破用として発明されました。

一方、非力な飛行機はその上空で何をしていたのでしょう。実は大変重要な任務を行っていました。空中からの写真撮影です。

空から敵の様子を偵察して写真を撮ることは19世紀から気球を使ってすでに行われており、第一次大戦では空中写真の技術はかなり進歩していました。気球と違って自由に空を飛び回れる飛行機に、最初に積み込まれたのは銃でも爆弾でもなくカメラだったのです。

「空からの目」はなぜそれほど重視された?

カメラが積み込まれた当時の飛行機、つまり、いまでいう写真偵察機です。一見地味ですが敵の陣地の写真はとても重要でした。敵も味方も塹壕に籠っている地上からではお互いの様子はよく分かりませんが、空からでは一目瞭然です。敵の塹壕や部隊、大砲の位置、後方の司令部や部隊の移動、補給品の様子もハッキリ分かります

第一次大戦の地上戦はまず大砲が敵陣地をどんどん砲撃し、弱らせたところに歩兵や戦車が突撃するというものでしたが、そもそも敵陣地や敵部隊の正確な位置が分からなければいくら大砲を撃っても地面を掘り返すだけで意味がありません。いくら大きな大砲でも「当たらなければどうということはない」のです。だから飛行機から撮った空中写真は、大砲の狙いを定めるのにとても大切で、大砲と飛行機は切っても切れない関係でした。

また敵部隊の配置や移動の様子を知ることが作戦を立てる上でとても重要な情報となります。第一次大戦の偵察機など目立たないですが、この頃には現代戦にも通じる空陸一体の共同作戦、立体作戦が行われていたのです。故障ばかりしていた初期の戦車よりよほど役に立っています。

偵察機を追っ払え!

味方の様子を「盗み撮り」するような敵偵察機ほど面倒なものはありません。そこで敵の偵察機を追い払おうと、武器を積んだ戦闘機という機種が生まれてくるのです。そうなると味方偵察機を守るため、こちらも戦闘機を繰り出します。こうして戦闘機同士の空中戦というものが起こるようになり、敵の戦闘機を排除し偵察機が活動できるようになると、「『制空権』を取った」と表現するようになります。第一次大戦の空中戦は「空の騎士道」が生きた戦闘機同士の一騎打ちのように後世でいわれますが、実際の空中戦の目的は敵偵察機を追い払うことで、敵戦闘機と「一騎打ち」をすることではなかったのです。

戦闘機というものの、最初は非力な飛行機に重い機関銃は載せられず、レンガを投げつけたり、ピストルを撃ち合ったりした「のんびり」な戦いでしたが、飛行機はどんどん改良されて、機関銃は標準装備となり空中戦も熾烈になっていきます。

こうして「制空権」争いのため戦闘機は急速に進歩します。1914年頃の飛行機のエンジンは100馬力にも満たず、重量も1t以下でしたが、末期の1917(大正6)年にはもう機体から全て金属製で200馬力という強力な機種も登場します。たった3年で大変な進歩です。

その後も「制空権」は戦争の勝敗を左右する大切な要素となり、戦闘機の進歩は目を見張るばかりです。最新の戦闘機はもはやライト兄弟の飛行機とは「どうしてこうなった」というぐらい異次元の乗り物です。この飛行技術の進歩はまさにスタートダッシュから始まったといえるでしょうが、その影にはカメラと大砲という、一見全く関係なさそうなものが絡んでいたのです。

【写真】ライト兄弟初飛行の瞬間

第一次世界大戦初期に使用されたドイツ軍の飛行機、「エトリッヒ・タウベ」。タウベは鳩を意味し、主翼や尾翼にその意匠が見て取れる。