今年で25周年を迎える沖縄の芸能プロダクション「FECオフィス」。1993年に「演芸集団フリーエンジョイカンパニー」を旗揚げ。その後、2001年に山城智二を代表とした会社組織となり、現在は芸人50名が在籍、舞台、テレビ、ラジオ、イベントで活躍する。今回は所属芸人4人にインタビューを行い、毎週水曜にリレー形式で掲載。

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2回目は、県内各地で常に満席を作る人気舞台「お笑い米軍基地」で脚本・演出を手掛ける “まーちゃん”こと小波津正光。学生時代のエピソードや「お笑い米軍基地」誕生のきっかけ、芸人としての目標を聞いた。

■ 言葉や日常生活、“沖縄色”を出しても笑いは生まれる

1974年沖縄県那覇市に生まれた小波津。小学生の頃は「オレたちひょうきん族」、「夕焼けニャンニャン」の全盛期で、ローカルテレビも全国を真似た演出で標準語を使うのが当たり前だった。しかし、ラジオでDJの高良茂が地元のネタを、沖縄言葉と標準語をミックスした若者言葉で話すのを聞いて衝撃を受ける。「沖縄の言葉で地元を題材にしてもこんなに面白いんだ」その時の感動が、芸人としてのベースとなっていく。

やがて県内の高校へ進学。3年生の頃、ラジオから流れる1~2分の短い漫才に強く引き付けられた。

「先代のFEC社長、山城達樹のコンビ・ファニーズが大学生の頃、名前を明かさずに漫才をやっていた。当時は誰か分からなかったけど、すごく面白くて。毎日カセットテープに録音して聞いていた」

ある日、街で偶然ファニーズが出演するライブ告知のポスターを目にする。

「絶対この人たちがラジオの人だと思ったから、すぐに日時と場所を確認してライブを観に行った。当時のFECは大学のサークルだったから、年の近いお兄ちゃんが何組か出ていた。みんな沖縄のことを分かりやすく切り取って笑いにしていたのが面白くて、すごく共感できた」

■ 基地がある沖縄の現状を笑い飛ばす舞台「お笑い米軍基地」誕生のきっかけ

1993年にFECに入団。お笑いコンビ「ぽってかすー」を結成し、県内で活動した後に上京。東京で芸人活動をしていた2004年8月13日、沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落する事故が起こる。

「全国紙ではアテネオリンピック読売ジャイアンツオーナーの電撃辞任ばかりで、墜落事故が報道されなかった。腹が立ってライブで事故を一面に扱った沖縄の新聞を掲げ『沖縄がこんな大変なことになってるのに、お前らはアテネオリンピックで盛り上がっている場合じゃないだろ』とお客さんに説教したら、大ウケした」

その体験が「お笑い米軍基地」を作るきっかけとなった。県外に普天間基地を紹介する通販番組のパロディーや、医師が患者にがん告知をする瞬間に戦闘機の爆音でかき消されてしまうコントなど、2005年の初演から基地がある沖縄の現状を笑いに変えている。

■ 咽頭がんを発症、芸とは何かを考える日々

2015年8月には咽頭がん治療のため一旦活動を休止。3カ月後の復帰公演では未経験だったタップダンスを披露して回復をアピール。以降、落語や歌、ダンスなどあらゆる芸をライブに取り込んできた。

「入院している時に、自分は今までお笑い芸人としてやってきたけど、俺がやってることは芸といえるか考えるようになって。とりあえず芸と呼ばれている音楽やダンスなどにチャレンジした。去年ライブで歌った時には、こんなの笑いになるのかって思うことが、曲や詞を乗せることで感情がうまくお客さんに伝わることに気づいた」

今年25年目を迎えるFECについても、改めて思うことがある。

「ようやくフリーエンジョイカンパニーという意味を考えるようになった。達樹さんはやっぱりすごいなーと思って。その時はノリで付けたと思うんですよ、大学のサークルだし(笑)。若手にはFEC立ち上げ時のように自由にやって欲しいし、僕らはそれを伝えていかないといけない」

11月4日(日)に開催する旗揚げ公演「演芸集団FEC25周年祭」では全ての演出を担当。漫才をはじめ、マーチングで旗などを使って音楽を表現するカラーガードで、琉球舞踊に合わせ演舞する「かぎやDEカラーガード」や、ラップ・エイサードラムを融合した「ラップDEエイサー」など、沖縄の伝統芸能を新しい形で表現する。

「お笑い芸人ならもっと自由な発想で、笑いとは何か、芸人とは何かを常に考え、いろんな角度で楽しみを提供しなければいけないんじゃないかな」

少年のような笑顔で新しいことに挑戦していきたいと語す小波津。その自由さが、沖縄芸人の可能性を体現しているのかもしれない。(ザテレビジョン

小波津正光=1974年8月13日生まれ、沖縄県出身。お笑い芸人。舞台「お笑い米軍基地」シリーズの企画・脚本・演出を務める。