前回、科学研究者の男女間格差に触れたところ、予想外の反響をいただき、朝日新聞からは取材の申し込みがあり東京大学の本郷キャンパスで時間を取りました。

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 関連の話題を少し補いましょう。

 最初に、やや外れた観点ですが、どうして私が女性研究者の職位に個人的な強い関心を持つかを記したいと思います。

 私は、学徒出陣シベリア抑留で体を壊した父が6歳で死んでから、教師の母の手ひとつで育てられました。

 父が40歳、母が39歳のときに出来た第1子でしたので、母親が60歳定年を迎えたとき、21歳の大学生でした。

 このときのやりとりは生涯忘れません。

 母が務めていたS学園というミッション・スクールは、Mというカトリックの神父が園長を務めていました。

 その刻薄さは尋常ではなく、非常勤での延長交渉に大学生だった私も同道したことがありましたが、女性就労者の悲哀を痛感させられました。

 就学中の息子がいるということで、結局1年だけ非常勤の延長がありましたが、手取りは激減、1年限りで雇止めでした。

 62歳から77歳で死ぬまで、結局母親は身近な子供に英語を教えるなどした時期があったものの、結局仕事がありませんでした。

 思い返すと、60代後半の母が、社会を知らぬまま、手書きの英語教室生徒募集などの紙を貼り歩いたりしていたのを思い出します。

 世知辛い世の中に相手にされるわけもなく、幾度も悲しい目に遭ったに違いありませんが、20代の私はそういう現実をあまり認識していませんでした。

 私は25歳前後から音楽屋として生計が立ち初め、33歳で大学に呼ばれました。それは母の65~73歳の時に相当します。

 出光音楽賞で貰った賞金の一部は、出光の思惑とは違うのでしょうが、親の白内障の手術代に充て、少しずつ面倒を見るようになりました。

 やがて70歳前後からボケはじめ、当初はおかしなことを言うものだから、またこちらも肉親ですから怒って口論になったりもしました。

 しかし、肺炎で入院、先端機器を備えた病院で脳のMR画像診断などを受け、萎縮し小梗塞で穴だらけになった母親の脳を見てからは、怒ったりできなくなりました。

 76歳で一度死にかけ、次に大きな脳梗塞で半身麻痺しかけましたが、早期の通電リハビリテーションで回復し、最期の1年は自分で自分の始末をつけながら暮らし、ある日曜の晩、自宅で突然亡くなりました。

 思い返すと、研究者ではありませんが、母親の後半生/晩年は、社会からの排除と、それに平行する脳機能の縮小で、段階的に死んでいったのが分かります

 こうした経緯に思いがありますので、女性の社会参加全般に、半ば怒りを背景に湛えた確信があります。

 東大に来てからは、上野千鶴子、跡見順子、北川東子といった女性のトップの下でお供するなり、ナンバー2として参謀を務めたりすることが少なくありませんでした。

 実のところ、それはあえてそのように私自身が人を選んだ側面があります。

 率直に言って上司は女性の方がやりやすい。男というのは実は女性以上に・・・いや、以下は略しましょう。

 何にせよ、大学組織で頑張っている「女たち」には、メメしい男性よりもよほど「オトコ気」(侠気)にあふれた人が多いのは、間違いないように思います。

ノーベル賞の女たち

 そこで、ノーベル物理学賞です。

 マリー・キュリー(1903年)、マリア・ゲッパート・マイヤー(1963)以来、55年ぶり、118年の歴史の中で、たった3人だけしか出ていません。

 つまり、118年の間に115年間、男だけ(普通毎年数名)の年が普通だった。意味のない計算をあえてするなら

3/118 =0.025….

 女性割合はもっとも高く見積もって2.5%、97.5%以上は男性だけで占められていたことになります。

 自然界の男女比はほぼ1:1、男女共同参画などと言いつつ、女性研究者の比率はなかなか上がらない。

 それでも(統計の取り方でいくらでも違う数字が作れますが)20%代程度には手が届きつつあり、仮にえいやっと25%、つまり4人中3人はオトコ、という絵柄で考えても、2.5%は1桁少ない。

 女性科学者が高く評価される割合が低いのは明らかですが、それは女性研究者の業績が低いことを決して意味しません。

 マリー・キュリーノーベル賞受賞業績は、夫のピエール・キュリーがパリ市立理工科専門大学で確保した倉庫のような部屋で、マリー自身の学位取得を念頭に、手弁当で放射能・放射性元素の存在を確定します。

 このときピエールマリーのキュリー夫妻は知財の先取権に敏感で、いち早く論文発表の手続きをとりました。

 1898年、放射能と名づけた新しい物質の性質を発表後、新たな鉱物資料から同様の効果を発見、マリーの故国ポーランドから「ポロニウム」と名づけ、続いて発見した物質は「ラジウム」と命名します。

 これらの仕事をキュリー夫妻は、教職で得た所得を注ぎ込んで達成しており、マリー・キュリーは今風に言えば非常勤講師で生計を支えながら、育児や家事と並行してこれら仕事を達成します。

 1900年、アンリ・ポアンカレは旦那のピエール・キュリーをパリ大学教授に招聘しますが、奥さんのマリーセーブルの女子高校の嘱託教師でした。

 ノイローゼを起こしたり、流産したり、さんざんな目に遭いながら、精力的に論文を発表していきます。

 1903年マリー・キュリーは36歳で、パリ大学で理学博士を取得します。

 家計は真っ赤ですが同年ロンドンに招聘され、業績は直ちに認められてデービーメダルを受け、12月にはノーベル物理学賞を受けますが、お金がなかったのでキュリー夫妻はストックホルムに行くことができませんでした。

 マリーは当時、妊娠出産などで無職、大学に縁はありませんでした。

 さて、周知の史実ですが1906年、パリ大学教授だったピエール・キュリーは6トンの荷物を積んだ馬車に轢かれて死んでしまいます。享年46歳。

 その結果、ピエール・キュリーに用意された研究室と教授の職位が留保され、相当揉めたに違いありませんが、パリ大学に史上初めての女性教授職が誕生しました。

 ノーベル賞を得て3年、マリー・キュリーは「女子高非常勤講師ノーベル物理学賞受賞者」として過ごし、夫の死によって、またその実験室を維持できる人が他に誰もいないという仕方のない理由によって、ほとんどアクシデントでパリ大学教授に就任します。

 それ以降も、1911年にはフランスアカデミー会員選挙に落ち、完全に袂を分かちます。

 そして、未亡人が亡き夫の弟子ポール・ランジュバンと親密な関係であるという「不倫スキャンダル」(今なら不倫とは見なされないと思いますが)など、「外国人で女性」というマリー・キュリーへのハラスメントは延々続きます。

 そんななか、ラジウムポロニウムの発見で、マリー・キュリーは2度目のノーベル賞(今度は化学賞)を受けます。

 しかし、フランス学術界が史上初のノーベル賞2冠の外国人女性科学者と和解するには、なお10年ほどの時間と、第1次世界大戦の混乱による世情のシャッフルが必要でした。

 2018年、スウェーデン皇太女すら「Me Too」という、ノーベル賞を挙げてのジェンダーのけじめをつけなければならない年、物理、化学両賞に女性科学者が並んだことは、偶然とは思われません。

 59歳の「准教授」が30年以上前の歴史的大業績でノーベル賞を授与され、今後四半世紀、3人目の女性ノーベル賞物理学者として全世界でどのように活躍するか、ストックホルムには未来を見据えた考えがあると見ていいでしょう。

(つづく)

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