米中の灰色戦争状態、世界同時株安など、先行きの暗い報道ばかりが目につきますが、ここではサイエンスの最先端に目を向けたいと思います。

JBpressですべての写真や図表を見る

 2018年のノーベル化学賞は「進化分子工学」と呼ばれる分野から、パイオニア業績の2件3人に授与されました。

 1件は「酵素の指向性進化」法を開発したフランシスアーノルド博士、もう1件は「ペプチド/抗体のファージディスプレイ法」の開発に対してジョージ・スミス博士とグレゴリー・ウィンター博士に授与されました。

 ノーベル財団は授賞理由をまさにそのまま

Frances H. Arnold "for the directed evolution of enzymes", the other half jointly to George P. Smith and Sir Gregory P. Winter "for the phage display of peptides and antibodies.

 と記しています。いずれも「生化学」ないし「創薬工学」というべき分野ですが、決定的に重要なのは、

 「生命体の遺伝情報解読のメカニズムを利用して、莫大な可能性の中から目的とする物質を見つけ出すシステム」を工夫したことにあります。この発想について、具体的に考えてみましょう。

「進化分子工学」とは何か?

 今回のノーベル化学賞が出た「進化分子工学」とは、少し耳慣れない言葉かもしれません。

 いったい何が「進化」なのか?

 フランシスアーノルド博士の業績「酵素の指向性進化」法に則して考えてみます。

 出発点は「遺伝情報が書かれているDNAは、あらゆる生物で共通」という事実だということにします。

 私の遺伝子も、あなたのも、みなデオキシリボ核酸(deoxy ribonucleic acid)という物質によって遺伝暗号が記されている。

 この事情は犬のポチも、猫のタマも、ムラサキツユクサも大腸菌も同様であるという、当たり前からスタートします。

(このポイントは、先日、この業績について学部学生と話していて、よく理解できないというので話す中で、ピンと来ていなかったので、あえて記しました)

(普通の解説記事では前提とされて記されていませんが、昨今低落が著しい日本の科学リテラシーを考えるに、こういうことから押さえていくのが大事だろうと改めて思いました)

 「進化分子工学」とは、生命の進化、具体的には突然変異と似たような<DNA上での>プロセス、分子進化を意図的、人工的に創り出し、単純な生命体を用い、人工的に作った環境で「適者」だけを選びながら、「人間にとって有益」な物質を創り出そうという取り組みを指します。

 アーノルド博士の場合、具体的には<酵素>が対象で、自然界に存在する酵素を超えて人間に有益な「スーパー酵素」を、ごくごく単純な生命体の命の営みを通じて創出するという、未踏の業績を上げたものです。

 私たちが消化管の中に持っているような「酵素」は、様々な動物の中で同じものも、また違ったものも作られています。

 当然ながら、その「酵素の作り方」を記した遺伝情報、DNAの配列があります。

 ここでは仮にそれを「酵素のレシピ」と呼ぶことにしましょう。アーノルド博士はこのレシピを、あえてランダムに切り刻んでしまい、間に新たな情報を書き込んでいくのです。

 卑近な例で考えるなら、チキンカレーを作るには、まず鳥肉をフライパンで炒め、次に玉ねぎを入れてよく炒め、といったレシピになる。これをバラバラに切り刻み、間に別の情報を書き込むわけです。

 「鶏肉→フライパンという命令を切り刻み、鶏肉の間にネギを挟んで串に刺す」という、別種の命令が入れば、すでにチキンカレーから「ネギまカレー」とでもいうべき別モノにレシピとしては「進化」している。

 こういうテクノロジーとして分子進化をコントロールするわけですね。

 次いで「→玉ねぎを入れて→よく炒める」「→玉ねぎを入れて→キムチも入れて→よく炒める」などとすると、チキンカレーは「ネギまキムチカレー」という、従来になかったレシピに進化、いわば自然界に存在しない超カレー(無国籍)となるわけで

 それがうまく働くか、美味しいかは、実際に作ってみて、遺伝子の場合はそれを大腸菌などの簡単な生物に組み込んで、実際に酵素を発現させてみて・・・、結果から選択していくことになる。

 こういう破天荒な方法を確立した人が、今年の賞の半分を持って行きました。

 フランシスアーノルドはいずれノーベル賞をもらうべき人だったと思います。

 それが今年になったのは、レイプに基づくノーベル文学賞延期という未曽有の事態に直面して、ノーベル賞全体がジェンダーバランスを回復する最初の一歩として選ばれた可能性があると、私は思います。

ファージ・ディスプレイ
「進化分子工学」の別シナリオ

 ノーベル賞の残り半分を4分の1ずつ分けたジョージ・スミス博士とグレゴリー・ウィンター博士は「ファージ・ディスプレイ」と呼ばれる面白いメカニズムを考え、実用化しました。

 まず「ファージ」という言葉、これは3年前、大隅良典先生がノーベル医学生理学賞を取った際の「オートファジー」(自食作用)と同じ食べるという意味のギリシャ語に由来します。

 バクテリオ・ファージとはバクテリアつまり細菌をたべちゃう奴、「溶菌性」のウイルスという奴らにほかなりません。

 ここであえて奴らと言ったのは、私はウイルスを生き物だと思っていますが、生物学者の間には、あれは生命体ではない! という頑迷な意見があることによります。

 ご存知のように、ウイルスは増殖します。

 彼らは自分の遺伝情報をDNAやRNAに蓄えており、他の生物の細胞に入り込んで自分の遺伝情報を注入して増えるという、ヤドリギのような性質をもっており、自分自身では増えることができません。

 レトロウイルス、例えばエイズのウイルスは、昔、駄菓子屋の前に置いてあった「ガチャガチャ」のような形をしていて、中に自分の遺伝情報を持ち、それが、小さなカプセルに入っています。

 それだけの体なので、遺伝子に書き込まれた「作られるべき体の組成」は、たった一層、皮一枚だけのカプセルの表面に全部並んでいる。

 ウイルスと いう「奴ら」は隠し事、腹黒いことができない、遺伝子以外の自分の中身が すべて体の外に丸見えになっている裏表のない存在であるという、ちょっと面白い事実に注意しておきましょう。これが後々役に立つのです。

 何らかの理由で、例えばエイズは初期、性交渉によって伝染していったように、この「レトロ・ウイルス」連中が他の生物の体内に入ると、宿主のヘルパーT細胞というリンパ球の一種、免疫細胞に侵入して「分子進化工学」を実践し始めてしまうのです。

 HIVウイルスの場合、自分の中にあるRNAを逆転写酵素を使って自分自身を作るHIVのDNAを創り出し、それを宿主の免疫T細胞の中に組み込みます。

 遺伝子組み換え操作を行うわけです。

 すると今度は宿主、患者すなわち私でもあなたでもあり得るわけで、恐ろしいことですが、免疫T細胞がHIVウイルスを創り出してしまい、この際T細胞自身は死んでしまいます。

 こうして、免疫が不全になるのが、恐るべきエイズの正体でした。エイズウイルスを発見したフランスのチームは10年前、2008年のノーベル医学生理学賞を獲得しています。

 さて、ウイルスというのは「ガチャガチャ」のカプセルみたいなもので、中に自分の遺伝情報を格納している、という構造をお話ししました。

 病原体としてのウイルスは、人さまのDNAに悪さをして人の健康を損ないますが、このウイルスのDNAをいじってやろう、と考えたのがジョージ・スミス博士の面白いアイデアでした。

 何せウイルスは細胞組織を持ちません。遺伝情報と、それを包む外側のカプセルしかない。

 ということは、ウイルスのDNAを「分子進化工学」して、中身に「レシピ」を付加してやると、ウイルス表面のカプセルに、レシピに従った「料理」が陳列されることになります。

 例えば、バクテリオ・ファージのDNAに「カレーライス」のDNAを組み込んで、宿主に感染させると、ファージはそれをせっせと作り出すことになります。

 実際の研究では、ファージの表面に、ランダムな「ペプチド」が並べられるような構造が作られました。ペプチドとは、タンパク質の部品(フックのようなもの)をイメージすると分かりやすいでしょう。

 このようなファージと、何らかのタンパク質、例えば、病気の治癒にあたって決定的な「抗体」の結合しやすさを調べてやれば、特定のたんぱく質と結合しやすいペプチド=フックがどのようなものであるか、簡単に見分けられることになります。

 「抗体」というのはアラームのようなもので、細菌やウイルス、病原体に感染した私たち自身の細胞を見つけると、それとくっついて「危ないよ!」と免疫系に知らせる働きを持つものです。

 そのような「抗体分子」を医薬として患者に投与して疾病を克服しようというのが「抗体医療」の戦略です。

 ファージ・ディスプレイという高い一般性をもつ方法を、抗体医療に応用して、大きな成果を収めたのが、もう一人の受賞者ウィンター博士の仕事になります。

 例えば、リュウマチという病気があります。皆さんの身近な高齢者にも、関節リュウマチで苦しまれる方がおられるかもしれません。

 加齢とともに身体各部位の関節が変形する疾病は複数知られています。

 リュウマチの原因はいまだよく知られていない面も多いようですが、自己免疫疾患で、本来自分自身の関節の一部(滑膜と呼ばれる組織)にリンパ細胞などが集まって有害な物質を作り出してしまい、炎症が慢性化したり変形が起きたりしてしまいます。

 ウィンター博士は、こうした疾病に有効な抗体薬を効果的に作り出すのに「ファージ・ディスプレイ」の方法を幾度も繰り返して応用して、ちょうど「自然淘汰」と同様に、有効なものだけを取り出して強化することで、効能の高い抗体薬を創り出すことに成功しました。

 このようにして生まれた初期の抗体薬、リュウマチ治療薬=ヒト型抗ヒトTNFαモノクローナル抗体製剤(商標『ヒュミラ』https://www.abbvie.co.jp/info-for-hcps/info-about-our-products/info-humira.html)は、現在では患者自身がペン型製剤を皮下注射できる商品も発売されており、全世界に普及しています。

 本庶佑さんの医学生理学賞の折(「本庶佑さんにノーベル医学生理学賞が来た必然的理由」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54279)にも、同じことを記しましたが、「リュウマチによく効く薬を作ったから」ノーベル賞が出たわけではありません。

 遺伝情報による自己複製、その変化=進化や突然変異と同様のプロセスを活用し、遺伝子を直接「編集」して分子進化させ、その結果の様態を観察する、新しい本質的な生命現象へのアプローチ法を確立し、その延長に臨床応用のモノクローナル抗体製剤が商品化され、全世界で活用されている。

 今年の化学賞でのスミス、ウィンター両氏の役割を、医学生理学賞では本庶先生が1人で頑張って実現しておられるような面があると思います。

 進化分子工学からのノーベル賞は、早晩出ないわけがない、本質的な業績ですが、それが今年出るめぐり合わせになったことには、半分「ジェンダーバランス」の影響があるかと思われます。

 10年前、こうした「ノーベル賞の横断的連携」を、審査員諸氏からの話として記した拙著「日本にノーベル賞が来る理由」には、賛否双方から様々なご意見をいただきました。

 しかし、ノーベル平和賞がアンチ「レイプ・テロ」の活動に対して送られ、スウェーデンアカデミーで犯された「レイプ事犯」に10月1日ノーベル医学生理学賞発表と同日に「実刑判決」が出され、物理、化学に各々3人目、5人目の女性受賞者が出ているのは決して偶然ではありません。

 いまストックホルムで何が議論されているかが、如実に示されていると考えていただいて、外れないと思います。

 ともあれ、確かに賞金の「半分」の業績として評価された女性化学者の大業績、残り半分の「男性陣」の業績と合わせ、サイエンスの基礎的貢献として、オーソドックスに評価され、未来を切り開く礎となるべきものにほかなりません。

 本質的には「オトコの科学」「オンナの科学」などというものはなく、ただただサイエンスには業績があるだけです。

 その評価における非対称が、早急に是正されるべきことを強く望まざるを得ません。

(つづく)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  ノーベル物理・化学賞に女性が並んだ意味

[関連記事]

世界で売りたいため? 日本を貶める村上春樹の大罪

地方大学の女性准教授にノーベル物理学賞、その理由