今年で25周年を迎える沖縄の芸能プロダクション「FECオフィス」。1993年に「演芸集団フリーエンジョイカンパニー」を旗揚げ。その後、2001年に山城智二を代表とした会社組織となり、現在は芸人50名が在籍、舞台、テレビ、ラジオ、イベントで活躍する。今回は所属芸人4人にインタビューを行い、毎週水曜にリレー形式で掲載。

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3回目は、沖縄のテレビやCMで活躍中のお笑いコンビ・ハンサムの仲座健太(なかざ けんた)。お笑いを志したきっかけや沖縄で話題沸騰中の護得久栄昇(ごえく えいしょう)誕生秘話などを伺った。

仲座は、1996年にFECに入団。当時は、地元の同級生を誘ってコンビを組んでいたが同級生が辞めたため、2年ほどピンで活動。その後、現在の相方、金城博之とお笑いコンビ・ハンサムを結成。“仲座先輩”の愛称で親しまれている。今回の25周年記念ライブでは、プロデューサーを担当する。

■ 相方・金城に課したコンビ結成の条件とは!?

――お笑いを志したきっかけはなんですか?

ダウンタウンの笑いや沖縄で活躍していた笑築過激団(しょうちくかげきだん)を観たのが大きかった。中学や高校の時に後夜祭のステージに立つことがあり、中学3年のときに友達とステージに立ったのが初舞台ですね。でも舞台でやるのはノープランで、“ダウンタウンのガキ使”みたいにフリートークで笑いを取っていた。

――ハンサム結成の経緯を教えてください

同期の若手メンバーでライブなどを行い、現相方の金城とは仲間みたいな感じで4年くらいやっていた。金城からコンビの話を持ちかけられたが、金城自身は、別で正社員で仕事をしていて「金城は面白いと思うけど俺はお笑いで食っていきたいという思いがあるから、金城も同じ目線じゃないと一緒にやっていくのは難しい」と気持ちをぶつけたところ、「俺もそういうつもりだから、コンビを組もう」となり結成に至った。

――全国への進出を考えたことは? 

高校時代にお笑いをやるか教員をやるか決めかねていて、親が喜ぶという事で教員の道を選んで福岡へ行ったんですよ。そこで初めて気付かされたのは“友達の作り方”を知らなかった。小さい頃から幼なじみとずっと遊んでいて、それがそのまま高校まで成長したので、地元の友達しか知らないので、誰も知らない土地に行った時に(初めての)人としゃべり方が分からなかった。そこで心が歪んでしまって1年で大学を辞め、「やっぱりお笑いをやる」と決めたと同時に「お笑いをやるなら沖縄で!」と心に決めていたので、(全国進出は)まったく無かったですね。

■ ネタは“等身大”を意識するように

――ハンサムのネタは方言も織り交ぜながら沖縄県民が楽しめるよう工夫されていますが、そこは意識されていますか?

そうですね。ここ10年は“等身大”というのを強く意識している。自分と金城がそれ以上のこととか背伸びしても出来ないので、自分たちが思っていること、出来ることを意識している。自分は地元、南風原町・喜屋武(きゃん)にアイデンティティーを持っていて、常に喜屋武の人たちが笑うかどうかという所だけ。地元の人に「あの時のあのネタとかが面白くないな!」と言われることが一番ツライ。いつも応援してくれるので「面白くない」という事がツライのではなく、自分が「ここってどうだろう?」と背伸びしている部分を指摘してくれている。

若い頃は自分が出来ることではなくて、中学の時にアドリブで出るとか、カッコイイ理想像を描いて自分がやりたい事をやっていた。「自分がやりたい事と自分が出来ることが一致している人は天才」だと思う。自分はその方向では無いので、自分が出来ることは何かを探すことに時間を掛けている。

■ 沖縄で人気の護得久栄昇はもともと仲座だった!?

――沖縄で人気の護得久栄昇の誕生秘話を教えてください

あれは、地元の喜屋武で生活をしていく中で発見した、三線や琉球舞踊の先生方の結集です。いつも不思議に思うのは、三線の先生たちが偉そうというか威張っているんですよ! でも子どもたちは先生たちの前で手を付いて、「宜しくお願いします」と挨拶すると、先生たちは挨拶を返すわけでも無く「はい、(さっそく)やりなさい!」と。こういう上下関係なのに、表に出るのは踊り手。観客から見たら踊り手が主役なのに、なんであっちが偉そうなんだろうということがずっと不思議だった。

でもそんな人たちも、酒を飲むと、ぐでんぐでんに酔っぱらって、手でオードブルをかき集めるとか愛くるしい人に変わり、そのギャップが面白い。ただ威張っているだけだったらイヤだけど、喜屋武の上下関係は、絶対的では無く、先輩にイタズラ出来るというか。そういう愛くるしい部分を集めたのが護得久栄昇ですね。からかいたいというよりは、愛しているという気持ちが強い。

一番最初にこのキャラを作った時、金城から言われたのは「この役は仲座じゃないかと」。でも僕は最初から金城のイメージでやって来たので「これは絶対俺じゃない!俺がやったらただ怖い人になるだけ。このキャラはみんなからイタズラされる面白さだから」と言った。

■ 後輩にめんどくさい事はさせたくないとは思うが…

――自分の若い頃と今の若手との違いは

自分が若い頃は“沖縄のお笑い”というのがまったく無い状態だった。「沖縄でお笑いなんて…」という状態からスタートし、自分が始めたころは「沖縄でお笑いを始めた人がいるらしいね」の状態までは来ていたが、当時は仕事が無いのは当たり前、ライブをする箱が無いのも当たり前、稽古をする場が無いのも当たり前だった。それを切り開いていって造っていたけど、後輩たちには「めんどくさい事をさせたくないな」という思いでやっている。

今は有り難いことにホールでやらせてもらい、若い芸人もテレビやラジオでも使ってもらって…そしたら今度はそれが当たり前みたいな感じになっている。ハングリーさをもっと持ってほしいという思いもありながら、難儀をさせたくないという思いが過保護になっちゃってるのかなと。もちろん受け皿を作るのは大事だけど、受け皿の作り方として自分たちがフォローして大切に育てるのでは無くて、めんどくさい事は肌で感じさせることも大事なのかなと最近は思っている。

――今回11月に行われる「25周年記念イベント」での関わりは

最近はプロデューサーという立場でやらせてもらっている。去年からなんですけどFECに人が増え、年齢の幅が広がってきているので、若い人とおじさんたちのライブを分けて開催している。そういう年齢層の違いも出てきているので、いろんな方向、それぞれの立ち位置で、いろんな笑いとか、いろんなやりたい事が違ってきている。だからこそ周年では一つになることが大事ですね。

■ 80歳を迎えてもコンビで漫才がしたい!

――25周年を迎えましたが、仲座さんの25年後はどういう未来を描いていますか?

67歳か…。僕は最終的に80歳になったときに「コンビで漫才がしていたい」という夢がある。「沖縄のお笑い」はまだまだだと思うので、若手はこれからもっともっと県外に出ていって、沖縄のお笑いを確立してほしい。

沖縄を拠点とした芸人が本土や海外とか行く状態になって、そのうえで若い子たちがテレビで「沖縄でやかましいオジーがいるわけさー」という存在になりたい。「80歳になってもまだ舞台に出て、アンケートの上位とか下位をいったりきたりしている人がいるわけよ」みたいな感じで言われたい。それを叶えるためには、僕らが最低続けていれば。オジーの芸人がいるということで年代の幅が広がるだろうし、若い子も入ってきたら、沖縄のお笑いというのは年齢の幅が広がるし、必然的にファンの数も増えるだろうし、そうなれたら一番うれしい。

立ち上げ当初は、自分たちが切り開いていくという苦労を強いられつつも、地元や後輩たちへの愛情があふれている仲座。これから80歳になっても、元気に漫才を届けてもらいたい。(ザテレビジョン

仲座健太(なかざ けんた)=1976年4月2日生まれ、沖縄県出身。お笑い芸人。2000年8月、金城博之とお笑いコンビ・ハンサムを結成。