今回ご紹介するのは、ゲーム夜話さんが投稿した『【横井軍平さん】任天堂入社~ゲーム&ウオッチまで-ゲームゆっくり解説【第41回前編-ゲーム夜話】』という動画です。

 全世界で4340万台という、前例のない大ヒットを記録した携帯ゲーム機ゲーム&ウオッチ。そのゲーム機が誕生した逸話や、生みの親である横井軍平さんが、それを開発するに至った経緯などが語られた動画がニコニコ動画に投稿されました。

 本記事では、そんなゲーム&ウオッチ横井軍平さんについて、博麗霊夢ピサロナイトゆっくり音声を使用して詳しく解説した動画を、画像を交えて紹介します。


『ゲーム&ウオッチ』生みの親は自分を“落ちこぼれ”と語っていた

博麗霊夢
 1941年京都府京都市生まれ。四人兄弟の末っ子。父親は市内にある製薬会社の役員で、比較的裕福な家庭で育ったそうです。

 大学では電子工学を専攻しましたが、あまり勉学に熱心ではなかったようで、自分は“落ちこぼれ”だったと、横井さんは述懐しています。卒業を控え、大手家電メーカーに就職を希望するも、ことごとく不採用になり、1965年とにかく地元の企業ならということで、ご本人いわく、半ばやけっぱちのような気持ちで、京都に本社を持つ任天堂に入社したそうです。

 そして入社後、暇つぶしで作っていた「ウルトラハンド」というおもちゃが、当時の山内溥(ひろし)社長の目にとまったことをきっかけに……。

 新設された開発課に配属され、その後『光線銃シリーズ』『ゲーム&ウオッチ』『ゲームボーイ』など、数々の大ヒット作を生み出し、任天堂を世界的企業に押し上げる、まさに原動力のひとりとして、長く活躍されました。

 横井さんが提唱した「枯れた技術の水平思考【※】」は、今も任天堂の経営哲学のひとつとして息づいているようです。

枯れた技術の水平思考
“最先端ではないがすでに広く使われ、ノウハウも固まって、安定して使える技術”である「枯れた技術」と、“それを使って、今まで無かった使い道を考える”「水平思考」を合わせた経営哲学のこと。

子供の頃に作ったおもちゃがヒット商品に

ピサロナイト
 横井さんは子供の頃から、日曜大工を発展させたような工作を趣味としていました。学校から帰ると、夜中になるまで“自分で楽しむ”ための玩具作りに励んでいたそうです。中学の時には、のちのヒット商品となる『ウルトラハンド』をすでに作っていたとのことです。

 横井さんが任天堂に入社して初めて任された仕事は、工場にある機械などのメンテナンスでした。暇に任せて社内でウルトラハンドを作っていたところ、山内社長に見つかり、叱られると思いきや“それを商品化せい”と、とんでもない話になった。それまでの横井さんは、あくまでも自分で楽しむために工作を行っていました。

 しかし、それを大量生産し、商品化するとなると話はまったく変わってきます。見よう見まねで設計書を作り、素材の指定から部品の調達、コスト管理に至るまで、利益を出すための商品作りが求められることになりました。当時の任天堂には、ものづくりにおける専門的な部門はなかったため、横井さんは製造に関する様々な工程を自分で行っていたようです。

 山内社長は、商品化するに当たり「任天堂はゲームメーカーなのだから、ウルトラハンドを“ゲームにしろ”という指示を下していました。

 その指示の真意は、当時の任天堂製のトランプなどには、ポーカーなどのルールが記された説明書が同梱されていたように、ゲームとして提供することで、ウルトラハンドの遊び方を子供たちに教えるという狙いがあったのだと思います。つまり、何をして遊ぶ玩具なのかということを、メーカー側が積極的にアピールすることによって、消費者が商品を購入するに至るまでの“明確な動機づけ”を付帯しているというわけです。

 ウルトラハンドは、140万個の大ヒットとなり、ほどなくして(他社の)偽物が大量に出回ることになりましたが、その偽物は腕利きの専門家が作ったもので、横井さんが作ったものよりも出来がよく、「かえって勉強になった」と横井さんは語っています。