木内さんはずっと二足のわらじを履いてきた人だ。25歳で故郷の飯山に戻り、お父さんとともに六兵衛で働きながら、スキーの選手・コーチとしても一流を目指してこられた。「父からは “働かざる者食うべからず”と言われ続け、自分でも“スキーをやっているからお店がイマイチ”とか“お店をやっているからスキーの成績が伸びない”というのは違うと思いましたね」と木内さんは述懐する。どうせやるなら、両方とも一生懸命やるのが木内さんの身上。もしかしたら、それは親御さんから受け継いだ遺伝子なのかもしれない。(本紙主幹・奥田喜久男)

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●父の跡を継ぐために故郷に戻って仕事に打ち込む



奥田 万能選手にもかかわらず、家業を継ぐために本格的な競技生活から距離を置いたということですが、高校卒業後はどうされたのですか。

木内 18歳で大阪の調理師学校に行きまして、その後、東京で就職しました。東京から飯山に戻ったのが25歳のときです。

奥田 それは調理師として?

木内 そうです。当時はほとんどスキーをしなかったですね。冬に一度か二度、昔の仲間と遊び程度にやるくらいで。

奥田 飯山に戻るということは、この六兵衛で?

木内 はい。父と一緒に仕事をしました。

奥田 お父さんは何歳のときに、このお店を開かれたのですか。

木内 私が10歳のときで、父は昭和15年生まれですから、33歳くらいのときですね。

奥田 聞いたところでは、もともと天ぷら屋さんだったとか。

木内 そうですね。この近くに、ほていや(現・ホテルほていや)という旅館があり、そこで父は板前、母は仲居をしておりまして、友人や出入り業者の後押しで独立開業したという話です。歴史的には、ここは飯山鉄砲町といって、かつての花街でした。そのため、飲食店が非常に多かったのですが、当時、天ぷら専門の店はほとんどありませんでした。そこに目をつけて、父は天ぷらをメインにした割烹にしたわけです。

奥田 お父さんは、もともと飯山の方ですか。

木内 いいえ。父は、秋田からこの飯山に養子に来たんです。言葉は悪いですが、口減らしですね。

奥田 飯山の雪はたいへん多いと聞いていますが、お父さんは雪国から、また雪国に来られたのですね。

木内 そうですね。ここは秋田一派といって、秋田から来た人たちが長屋に集まって暮らしていました。その人たちを頼って、養子に来て就職するわけです。スキー場や旅館業の下働きをする。あと、魚屋もすごく多かったそうです。

奥田 このあたりでは、魚は獲れませんよね。

木内 もちろん獲れません。日本海側から、この塩の道を通って干物などを運んできたわけです。昔からスキー場や宿泊施設がたくさんあったので、そうしたところの需要があったのでしょう。

奥田 秋田一派というのは、おもしろい言葉ですね。でも、なぜ秋田からなんですか?

木内 秋田だけでなく青森からも来ます。かつての青森、秋田といえば、冬場は雪や寒さが厳しく、まったく何もできない土地でした。そのため、この信州のスキー場や旅館などに、出稼ぎに来る人が多かったと聞いています。季節労働的な仕事に携わる人もいれば、うちの両親のように移住して通年で携わる人もいたということです。


●26歳のモーグルデビューから日本代表チームのコーチに



奥田 長野五輪のナショナルチームのコーチになった経緯を聞かせていただけますか。

木内 飯山に戻ってくると、飯山市スキークラブの方から、スキーで地域に貢献しろと言われました。仕事をしながら、お遊び程度に大会に出たりしていましたが、アルペンのジュニアの面倒をみてくれないかと。

奥田 なるほど、かつてサポートしてもらった立場からサポートする立場になったわけですね。

木内 はい。それでジュニアの後は、うちのスキークラブにもフリースタイル(モーグル)をやっている者がいるから、どういうものか見てこいと言われました。いずれ大会運営も任されることになるから、実際に見て、何かしら得てきなさいと。そしたら、そのスキークラブの方は、大会に私をエントリーしちゃったんですよ。

 見てこいというのは、大会に出て見てこいということだったんです。

奥田 えっ!? かなりブランクがあるのに、いきなりですか。

木内 というか、もともと私はアルペンの選手で、まったく種目が違うのでやったことがありません。ルールも知りませんし…。

奥田 ずいぶん乱暴な話ですね。

木内 乱暴ですよ(笑)。でも、出場したらいきなり3位に入ってしまい、続けてやらないわけにはいかなくなっちゃった。

奥田 すごいですね。

木内 そこからモーグルにはまりまして、出る大会ごとにいい成績が出ました。26歳からモーグルを始める人はいないのですが、私はデビューして32歳までは現役で、ヨーロッパカップなどに日本代表として出場していました。

奥田 お店の仕事は?

木内 もちろん、家業も並行してやっていました。マラソンの川内(優輝)選手は公務員ランナーとして大会に出ていますが、それと同じように、私も仕事をしながら週末にはモーグルの大会に出ていました。それがトレーニングにもなっていたんです。

奥田 それで、日本代表のコーチにはどのような経緯で?

木内 当時、ある程度の成績を収めた選手が引退して、コーチになるということが少なかったんです。そうなると、結局、海外から外国人コーチを呼ぶことになるのですが、長野五輪の開催が決まり、おまえは現役として経験したのだから今度はコーチをやれと。私は現役引退するまでの5年間は長野県コーチを兼任していました。そうしたこともあって推薦されたんですね。

奥田 契約されたのはいつですか。

木内 長野五輪の2年前ですから1996年ですね。

奥田 長野五輪では、里谷選手の金メダルをはじめ、大きな成果を上げましたね。それによって、日本でモーグルが広がり始めた感があります。

木内 そうですね。どんな競技でも同じことが言えますが、海外に一人の選手が出ていって、それが通用すると、その後、必ず続くんです。なぜかというと、ふだん一緒にトレーニングしていて、海外で勝ったものの調子が悪いときの彼と、調子がいいときの自分が戦って、自分が勝つこともあるわけですよ。だから、世界の超一流選手にあいつが勝ったということなら、もしかすると自分もいけるのではと思えてくるんです。あの金メダル獲得から、女子も男子も世界にグッと近づきましたね。日本人が金メダルを獲得したということで、相手の見る目も違ってきます。

奥田 コーチを辞められてからは、どのような活動を?

木内 一般の方や子どもたち向けのスキー教室によく呼ばれました。もちろん店の仕事との兼業です。2005年に父が亡くなってからは、ほとんどスキーをすることもなく店の仕事に集中していたのですが、最近は修学旅行のお手伝いなどを通じてスキーの楽しさを改めて感じています。

奥田 木内さんはやっぱりスキーが好きで好きで、一生離れられないんですね。


●こぼれ話



 朝、上野駅北陸新幹線に飛び乗ると、お昼には飯山駅に着く。長野駅の一つ先だ。飯山市の人口は2万人余り。小ぶりな市なのだが、駅舎は立派な佇まいだ。建て替える以前の駅舎にお目にかかりたいと思った。新幹線の駅はどこもかしこも似ているので、旅情を味わうのには台無しだ。駅舎から中心街は少し離れている。4~5分も歩くとシーンと静まりかえった環境に包まれる。空気はうまい。

 ほどなく街なかに足を踏み入れる。仏壇屋の並ぶ通りがある。その裏手の通りには寺がズラリと並んでいる。壮観だ。手入れの行き届いたところ、雑然としたままに日々を過ごしている寺、佇まいから住職のオーラが見え隠れする。怖いことである。この地は豪雪地帯だ。雪景色大晦日はいったいどのような“ゆく年くる年”なのだろうか。除夜の鐘の競演が展開されるのだろうか。

 この小都市には大小のスキージャンプ台がある。私が訪ねた時には中国の女子選手が飛んでいた。お腹が空いたので、居酒屋風の飯屋に入った。カウンターの止まり木で一杯やったら、いい気分だろうなぁと、ぐるりと店内を見渡す。壁に長いスキー板が飾ってある。額もいくつか飾ってある。注文した蕎麦をご主人が持って来てくれた。「たくさんのスキー用具がありますねぇ」。このひと言が『千人回峰』につながった。見るからに普通の居酒屋の主人なのである。いや、ガタイは少し頑丈そうかな。あの時、一歩踏み込んで話しかけてよかった。対談を終えて、しみじみ思った。次回は雪景色を見に行こう。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

<1000分の第219回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。