私たちは日々、誰かと会話し、相手の話を聴く。たとえば、プライベートにおいて「一対一」で。会議の場において「複数人」で。フォーマルな場で壇上の誰かの話を「多人数」で。テレビに映ったコメンテーターの話を「一方的」に。状況はさまざまだ。 

JBpressですべての写真や図表を見る

 そのときどきで、面白い、面白くない、上手い、下手、納得、不満などの評価を、表には出さずとも胸の内で評価し、聴いた話に対して自分なりの何らかの見解をもつ。聴き手側は、日常的に行われるその「審査員」のような評価行為をあまり意識することはない。

 一億総評論家時代である。発言にも細心の注意を払わなければならない。だが、私は審査行為をする聴き手側の人々に対して、少々意地悪な質問を投げかけたい。

「聴き手であるあなたが、人前で話をするときの内容は、どれほどのものなのですか?」と。

 想像してみて欲しい。あなたが数百人は入る会場で、目の前に広がる人々を前に何かを話さなければならなくなったときのことを。聴き手たちの波のようにざわめく心のうちを。一転、評価される側に回ったあなたは、数百の審査員を前にどれほど「得点」を取ることができるだろうか。

 筆者は最近、人前で話す機会を何度か得て、上記のようなことを考えるに至った。それもひとえに、自分が他者の話に厳しい目をもつ審査員であるがゆえだろう。自分のそれまでの在り方を、反省したことは言うまでもない。

 加えて、性格的に、何日も何週間も、ひどい時だと何カ月も前から多大なストレスを感じる性分である。審査員の方がたに、なんとか高得点をつけて欲しいと願う私が、人前で話すための対策をあれこれと考え、結果たどり着いたのは、「深夜ラジオ」を参考にすることだった。まったく関係ないように思えるが、これが大いに役に立ったのである。

村上謙三久 『深夜のラジオっ子』

 ラジオを聴き始めたきっかけは、本コラムでも紹介した『明るい夜に出かけて』(佐藤多佳子著、新潮社)という、深夜ラジオをテーマに据えた本を読んだことだった。

 その後、話し方の研究の必要にかられて、さまざまな「話し方」の本を読んだ。だが、目から入る情報は「なるほど」とは思えども、しょせんは頭で理解すること。観念的である。

 試行錯誤するなかで、ある人から語学習得で効果を発揮するシャドウイングの話を聴いた。話者の言葉を、ワンテンポ遅れてそのまま真似する方法である。試しに実戦してみたところ、これがなかなか難しい、だが正解に近いという実感があった。

 さまざまな話者を試すうちに「深夜ラジオ」にたどり着いたのは、スマホアプリによって時間に縛られずに聴けるようになったことが大きい。

おすすめはオードリーのオールナイトニッポン

 当時30代後半。深夜ラジオにハマる年齢としてはかなり遅い。しかも、聴取する番組のほとんどは芸人のそれだ。通勤の合間、他のビジネスマンが自己研鑽に充てているだろう時間に、話術のためであると自己弁護しながら、心の快楽を満たす背徳感。だが、こと話術に関していえば、その背徳感を補って余りある効果があることを、声を大にして言いたい。

 おぎやはぎの「メガネびいき」、アルコアンドピースの「D.C.GARAGE」、ハライチの「ターン」、オードリーのオールナイトニッポン山里亮太の「不毛な議論」、伊集院光の「深夜の馬鹿力」などなど。お約束が多いテレビでは発揮される機会が少ない、話術による真剣勝負。彼らの言葉を反復するだけで、「伝える力」「話の構成力」「聴き手の興味を察してその部分を広げる力」「間のとり方」など、たくさんの気づきが得られる。

 先に挙げた番組のなかでも私の一番のおすすめは、オードリーのオールナイトニッポンだ。なぜなら、2時間の番組枠のうち、およそ1時間半がフリートークという、他に類を見ない「話術」中心の番組構成だからである。

後ろの笑い声はだれ?

 その魅力は後述するとして、ラジオを聴くようになって早々、別の部分が気になった。放送中に、あきらかにパーソナリティ以外の笑い声が聞こえてくることである。調べてみると、笑い声を発する彼らの正体は「構成作家」だという。うっすら耳にしたことはあるが、どのような仕事をしている人たちなのだろう。

 その疑問を解消するため本書を手に取った。本書では、それら構成作家や、リスナー、ハガキ職人などの証言を中心に、深夜ラジオの魅力が紹介されている。

 冒頭に出てくる藤井青銅は、ヘビーリスナーならば何度も名前を聴いたことがある有名放送作家だ。彼は言う。作家は、ラジオという世界において、局から局へと垣根を越えて渡り歩く、いわば渡世人みたいなものだと。

 作家がつくりだした番組の流れに、パーソナリティの話術が浮かび、ときに棹をさす。絶妙なチームワークのうえに成り立つ流れゆく時間。草木も眠る深夜に、聴いている側は彼らの会話を耳元で聴き、時に自分一人だけに語られていると錯覚しながら過ごす。

 深夜ラジオを聴き始め、制作の意図や裏側に興味をもったら、ぜひとも本書をお読みいただきたい。すぐれた話術の舞台裏で、何がどのように順位付けされているかを知れるだろう。

山里亮太 『天才はあきらめた』

 本書は2006年に出版された『天才になりたい』を、文庫化にあたり改題したものである。漫才コンビ「南海キャンディーズ」のツッコミ、山ちゃんこと山里亮太が芸人として歩み始める前から、売れた後までの「戦いの日々」が綴られた1冊である。山里のラジオは淀みなく流れる急流のようだと思う。いつ息継ぎをしているのか、心配になるほどその語り口は速い。それでいて、まったく噛まないのである。流れの速い川の川底が例外なく深いように、山里の知識と才能の底の深さを感じさせる。

 天才になりたいという願望をタイトルに込めて12年。それほどの頭の回転と、ツッコミのワードセンスと、巧みな話術で私たちを魅了する山里ですら、「あきらめた」天才の道。山里の言う天才とは、いかほどのものなのかと本書のページをめくった。

 一読して思ったことは、テレビやラジオでの印象とは異なり、山里は努力の人なのだということ。それゆえに、他人や相方に妥協を許さず、より高い水準を求めてしまう完璧主義者なのだなということだ。活字でもそのワードセンスは健在である。だが、本書で見せつける文才とはうらはらに、本書の内容は暗い。

 これまでの相方との不仲の歴史を振り返って、自分を否定し、自己を酷評した相手へ復讐を誓う執念がこれでもかと綴られる。だがそれを、最後には不思議と感動に変えてしまうのだ。自分の内面の傷を隠すことなく晒して戦うその姿は、判官びいきの日本人の感性を刺激する。他にない読み味の1冊だ。

 そんな山里は、あるとき気づく。

「僕が考えているものには、いつだって自分はいなかった。お客さんは何を言ったら笑うのかばかりを考えていた」(P114)

 その事実に気づいてから山里は変わる。第一段階は自分がしゃべる内容に注意が向くこと(発信)。第二段階は相手がどう思っているか考えること(受信)。その先の第三段階として、自分を相手に重ねたうえで、もう一度自分に戻って言いたいことを言う(相互通信)。一段階上のレベルへと至ったのだ。これは、話術の心構えとして参考にできるだろう。

 また余談だが、この本の巻末に収録された、オードリーの若林の解説が秀逸である。タイトルは「ぼくが一番潰したい男のこと」。山里と若林の天才の定義を、笑いとともにぜひ知って欲しい。

若林正恭 『ナナメの夕暮れ』

 その若林が書いた最新刊が本書である。前述したが、オードリーのオールナイトニッポンにおいて、充てられているフリートーク1時間半は、若林が中心となって引っぱっている。その話術は山里と比べると、一見すごみは感じられない。だが、話への引き込み方、自分への注意の集め方がハンパではないのだ。

 それは、テレビで観る若林というキャラクターへの「親しみやすさ」に依拠するものと思われがちだが、じつは違う。彼の内面、思想は「親しみやすさ」とは真逆であることが、本書を読むと知れる。全編を通じて、人見知りと、自分探しと、生きづらさについて書かれている本書。物事をナナメに見すぎて、自らも他人からそのように見えているのではないかという疑心暗鬼から、自縄自縛となり、身動きが取れなくなったことを面白おかしく描写している。そんな繰り返しであった20代、30代。しかし彼は40代の足音を聞いてある境地へと至る。

 印象的だったのは、次の一文だ。

「若者は批判さえすればイデオロギーを持っているように見せられる時期がある。だが、おっさんは批判した場合すぐに対案を求められる。(中略)壊して終わりではない。批判は割と簡単だ。だって完璧なものってこの世にはないから」(P102)

 この考え方は、物事をナナメに見ることを捨てなければ出てこない発言であろうと思う。彼はあるひとつの成熟を迎えたのだ。さらには、それが人間的な深みとなり、自身の魅力につながっていることに自覚的である。

自己との対話が魅力的な話術として花開く

 自分への問いが多い人間は、内なる言葉をもって自らを理解しようとあがく。口数が少ない人見知りは、じつは心の内では多弁なのだ。自己との対話を尽くし、その内なる行為が話術そのものの魅力として花開く。その特大の花が若林その人ではないだろうか。

 これまた余談だが、若林も山里と同様に自分が理想とする自分像を諦めることで手に入れたものの存在について書いている。二人は別々の道で頂上を目指しながら、頂上で出会ったのだ。

 話すとは、頭で考えたことを言語化する行為だ。シャドウイングは一定の効果を得ることができる。だが、ラジオで発せられた言葉が、どういう思考回路を通って表へと出てきたかを知らなければ、さらなる効果は期待できない。語学における会話と文法のように、作り手の論理と、パーソナリティの思考回路を知って初めて、深夜ラジオの話術を活かすことができると私は思う。

 彼らの心情を推論しながら、彼らになったつもりで、彼らの言葉に自分の言葉を重ねて欲しい。そうしたら近い将来、あなたは驚くほどの話術を身につけるに違いない。人前で話す機会がまだ訪れていない人へ、深夜ラジオを聴いておくことをおすすめする。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  『スクールセクハラ』を放置した僕は全力で償いたい

[関連記事]

担任教師に乱暴された女性がついに決心したこと

親は知らない「スクールセクハラ」という地獄