日本人は「朝まで生テレビ!」や「2ちゃんねる」のおかげなのか、討論がずいぶん“巧く”なった。
相手の攻撃を「それは小さな問題」とはぐらかし、「そういうお前はどうなんだ」と、自分のことをさておき、「批判から逃げるな」と相手のはぐらかしは許さずに徹底追及し、相手の欠点を針小棒大に強調し、自分の欠点は小さく評価し、優れた点を過大評価する。これらのテクニックを駆使することにより、討論で言い負かす力を持った人間がずいぶん増えた。しかし討論は、相手から何も学ばない欠陥がある。
日本では、討論(Debate)と議論(Discussion)があまり区別されていない。これは海外でも混同されることが多いようなので仕方ないが、科学の世界では、前者はまったく採用されず、後者だけ。討論は勝ち負けにこだわる手法でしかない。他方、議論は真実の探求のために行われる共同作業で、どっちの論が正しかったかといった、勝ち負けは気にしない。
ただ、討論と議論はそんなにきちんと区別されている言葉ではなく、「議論しよう」という提案が「討論で勝ち負けを決しよう」という提案に受け取られかねないので、どうも混乱することが多い。
「築論」のすすめ
そこで私がお勧めしたいのは、「築論」という呼称だ。勝つためならどんな手段(場合によっては詭弁)でもとることもいとわない討論とは違い、築論では、相手と自分のそれぞれの長所を生かし合い、ともに真実を追究するための共同作業を行う。
私は、築論こそ、日本人がうまくなってほしいと願っている。相手の意見が自分と違うときこそ面白がり、なぜその意見に至ったのかを聞き、そうすることで自分の意見がどのような前提に立って組み立てられているのかを知り、相手の論拠も加えた上で、新たな立論を行う。互いに確認が不十分だったところを補い合い、バージョンアップする。これなら学び合いになるし、はるかに生産的だ。
討論に巧くなればなるほど、相手に勝ったという快感は得られるかもしれない。しかし、勝つために相手の妥当な指摘から学ぶことを拒否し、ひたすら相手をこき下ろすという作業を続ける中で、学びが失われてしまう。日本人はいまや、このスタイルがはびこってきたような気がする。自ら「バカの壁」を作っているかのようだ。相手から学べない。
『バカの壁』とは、養老孟司氏の著作名だ。その著作では、人間はしばしば「バカの壁」を築いてしまうという。相手が自分より劣った存在だとみなすと、相手の意見がすべて愚かなものに見え、すべてバカにしたくなってしまう。こうして、相手から学ぶ機会を自ら失い、「バカの壁」を築き、「バカにしたほうがバカなんだよ」という、大阪の小学生がよく口にする状態に陥り、自分自身の学びが停滞してしまう。
「朝まで生テレビ!」や「2ちゃんねる」で行われる討論は、「相手をバカにする」スタイルで行われている。これをマネしたら、「バカの壁」が形成されやすい。何しろ、相手を言い負かしてナンボ、大きな声で相手を黙らせることが勝利の証なのだから。相手の意見はすべて愚劣に見え、自分に賛同してくれる意見と人間はすばらしいと評価する。こうして、自分の論理に閉じこもって学びが失われ、知的退歩が起きてしまうのだ。
「見世物」から「学び合いの場」に
特にネットでの討論は、いかに相手を苛立たせるかという心理戦も巧い。これでは感情的になり、真実追究、知見のブラッシュアップからどんどん遠ざかり、相手を打ち負かすことにだけ、双方、熱を帯びてしまう。これでは学びが形成されにくい。相手を憎むあまり、バカにしたくなり、罵りたいあまりに、相手の論を取るに足らない愚論だと決めつけたくなる。
「築論」ではそうした不毛な状態を回避し、学び合いの場として話し合いを捉える。家を建築するには、ノコギリだってカナヅチだってクギだって木材だって必要だ。多種多様な道具や素材があるから、家は成り立つ。築論は、それぞれの強みを生かし合う発想で進められる。
もちろん、討論も上手に運営すれば真実追究、議論のブラッシュアップに生かせる、という意見もあるだろう。しかし、日本では「朝まで生テレビ!」や「2ちゃんねる」に毒されて、「論理的な体裁をとった罵りあい」に堕しやすい傾向がある。プロレスみたいで見世物としては面白いのだが、それを一般社会で実行すると、大変なことになる。
筆者が「築論」の見本として興味深く拝聴している番組が、Eテレの「ニッポンのジレンマ」だ。初回、それこそ揚げ足取りの罵りあいになりそうな気配になったとき、司会が「田原さんの番組みたいになっちゃう」と冷水を浴びせた。そこからこの番組での議論は「築論」的になった。異論を否定するのではなく、異論を新しい視点の提供と捉え、さらに議論をバージョンアップさせる姿勢が定着した。
築論では、なるべく新しい視点、異論が提出されることを喜ぶ。それは、参加者全員が「気づいていなかった」「意識していなかった」ことに気がつき、新しい学びが発生することを嬉しく思えるからだ。こうした学びの発生が、日本で根付いた討論にはとても発生しづらい。討論では、参加者がみんな「バカの壁」を築き、「自分以外はバカ」だとみなし、そう思い込むことで学習する機会を失い、自らますます愚かになる、という悪循環が発生しやすい。
筆者は、「朝まで生テレビ!」も「2ちゃんねる」の討論も、討論の問題点、課題を浮き彫りにするという点で、意味のある体験だったと考えている。ただ、そろそろバージョンアップしてもよいのではないか、と考える。自分の思考の正しさばかり主張し、学ばない姿勢からは、いわゆる夜郎自大*1の誇大妄想しか生まれない。
大きな声と攻撃的な姿勢で相手を黙らせようという討論のテクニックは、日本ではずいぶん根付いてしまっているようだが、そういう悪習については別稿の「納得!会議で『声の大きい人』に押し切られない方法」*2をお読みいただきたい。大きな声の人をはびこらせていては、築論はできず、衆知を集めることもできなくなる。
自分にない発想、着想を面白がり、互いに学びあう「築論」が日本の次の流行となるように願っている。
*1:小さな国の王が、自分の国を巨大なものと思い込んでいた故事。
*2:http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50190
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